文/中国の大法弟子
【明慧日本2015年8月10日】私が同修のAさんにあげたDVD複製機とパソコンは、なんと彼女の夫によって海に捨てられたことを先月知りました。そのことを耳にした瞬間、私の頭は空っぽになり、しばらく呆然としました。どんな事に出遭っても、修煉者は心を動じてはいけません、大法の真相資料を作る機器がこのようにして投げ捨てられたことを聞いて、私の心はとても重くなりました。しかし、内に向けて探すと、私自身にも責任があるのです!
経済的に、我が家は決して豊かではありません。私と夫が失業した後にアルバイトをして、家のローンを返済しながら子供の大学、大学院の学費を払っています。私は大法修煉者なので、すべてのお金を真相を伝えることに使っても惜しくないと考えています。その出発点に基づいて、私は無償で同修たちにお金や機器を提供しています。貯金が底をついてすぐにお金を出せない時でも、私は毎月の給料を節約して、生活を切り詰めます。同修たちは私を金持ちと思っているかもしれません。
子供と夫がそれぞれ使っているパソコンを私は無理に「取り上げて」、同修にあげました。我が家に来て、私が使っているパソコンを見て気に入った同修に、私はすぐそのパソコンをあげました。後日、私はお金を節約してまた買ってきます。
我が家より経済条件が良いのに、パソコンを買う金を惜しむ修煉者を見て、私は「修煉は徐々に心性を向上させる過程です。だんだんと彼女は上がってきますよ」と彼女に理解を示しました。自分で買わずに他の同修からの援助を受けたためにパソコンを大切にせず、流行を追って頻繁にパソコンを更新する修煉者もいます。しかも彼女は古いパソコンを同修に返すのでなく、自分の家族にあげたそうです。そのような修煉者はめったにいないと思って、私は深く考えていませんでした。自分は心性が高くて、何でも放下できると思っていました。
昨年末に、姉が中古のDVD複製機を私にくれました。夫のパソコン1台があるため、DVD複製機とセットして誰か同修にあげれば、どれほど良いかと思って、私は夫からパソコンをもらいました。それをAさんにあげた時、Aさんに「お金は要りますか」と聞かれ、私は「要りません!」と即答しました。大法の仕事に使ってもらえば、お金なんて要らないと思いました!
しかし、今振り返って考えると、もしも当時Aさんに少しでもお金を払ってもらっていたら、Aさんの夫はごみ同然にDVD複製機とパソコンを捨てたでしょうか? ただで同修から機器をもらって大切にしない修煉者は、業を作るのではありませんか? 金品に不適切な扱い方をしたため、旧勢力に隙に乗じられた同修や、金品を無償で提供した人には責任がないのでしょうか?
Aさんのことから、私は以前のことをいろいろ思い出して、恥じ入りました。師父は私たちに「金と物に触らず」と説かれたではありませんか? パソコンや真相資料を作るための設備を買う金ぐらい、どの家庭でもあるでしょう。私のやり方は、かえって他の同修の修煉の道を妨害したのではありませんか。ここ数年、我が家の経済が「極貧状態」に陥ったのも、私が金品の扱い方において過ちを犯したことに原因があるかと思います。
Aさんのことをきっかけに、本当に自分の修煉を見直さなければならないと私は思いました。掘り下げて考えれば、やはり学法が足りず、根本から自分の執着を変えていないことが原因だと分かりました。
私の生まれた家は、先祖代々から修煉の道を探していました。大家族の老若男女とも徳行を重視して、私たちは小さい時から人間は修煉しなければならないという教育を受けてきました。そのため、私自身は伝統文化の影響を多く受けて、善良な心と良好な教養をもって法輪大法の修煉に入りました。しかし、それは私の向上を妨げることにもなっていました。
家庭教育のせいか、私は周囲にまったく警戒心がなく、全ての人を良い人と見ています。当然、同修たちをとても良い人間と思っています。同修と接触する時、「あれ」と思って愕然とする時もありますが、深く考えたことがありませんでした。人類の道徳が最も低下した今日に師父は法輪大法を伝えられたので、様々な人間が大法の修煉に入ったのですが、それこそ師父が我々に与えられた修煉の環境であることを、私は考えもしませんでした。
また、小さい時から受けた家庭教育が根強いため、修煉の中に出会った事に対して、私は大法の基準ではなく、習慣的に「お人よし」の基準で対処してしまいました。その対処の仕方は大きな危険をはらんでおり、周囲の人の貪欲を助長させたかもしれません。修煉者として、どんな小さな一念でも、どんな小さなことでも、大法を規範と指導にしなくてはなりません。
「お人よし」の基準で問題を見ると、物事の真相が見えず、人と人の因縁関係が見えないため、その基準で行うと大法に適わなくなります。今後「お人よし」の基準を除去しなければなりません。それに、親に教育された価値観や観念の中に、修煉者として適切でないものがあれば、今後取り除かなければならないと思います。もしもその教育の背後に仏教などの背景があれば、更に不二法門の問題と絡みますので、いっそう除去すべきです。今回、私がAさんにあげた設備がごみ同然に捨てられたことは、修煉の厳粛さを証明したのです。
「お人よし」の基準は常人の次元の理にかなうだけで、大法の法理にかなうとは限りませんので、そのへんをはっきり見分けていない私は、修煉の中で試行錯誤を繰り返してきました。幸いに、設備が捨てられたことを通じて私はやっとはっきり見分けられるようになりました。それを書き出して、同修たちの参考になれば幸いです。