文/中国の大法弟子
【明慧日本2015年7月30日】修煉者として、旧勢力の按排と妨害を否定しなければならないことは誰もが知っていると思います。しかし、どうして旧勢力に按排された道を歩んでしまう人がいるのでしょうか。我々の考えが旧勢力の考えと一致したとき、ついに旧勢力に左右されてしまうのだと、私は最近やっと気付きました。では、旧勢力の考えとは、一体どんなものでしょうか?
一、最も典型的な旧勢力の考え方は、相手を変えたいだけで、自分を変えたくない
旧勢力は自分に問題があることを根本から認めず、そのために大法に正されることを拒み、相手を変えたくて、自分のほしいものを手放したくないのです。旧勢力は自分が宇宙の最も優秀な生命だと思っており、他の生命はみな問題があると思っています。同じような考えを持つ修煉者は、いつも自分の修煉がちゃんとできていると思って、いつも外に向けて探し、内に向けて探すことができません。
彼らは外に向けて探す時でも「修煉のために」という口実を掲げているため、自分自身が外に向けて探していることに気付きません。師父は『各地での説法三・二〇〇三年米国中部法会での説法』で旧勢力について次のように説かれました。「正神の現れはもちろん、低次元の善のない生命のように憚ることなく悪事を働くことはなく、それらの現れは皆善なのです。しかし、この善は変異したものであり、善の背後に執着があります。その善の現れがあるからこそ、造った阻害は最も己を欺き人を欺くものです。法を正さなければ、これらのことは本当に突破しにくいのです」
修煉者として常に内に向けて探さなければ、自分の修煉が良くできていると自惚れてしまい、次元を高めることができません。とても精進しているように見える修煉者がかえって問題を起こすのは、ここに原因があります。自惚れても、周囲から評価されても、他の空間にいる神は全てをはっきり見ていますよ。
二、相手に厳しく要求し、過ちを許さない
旧勢力は自分の気に入らない生命を壊滅させると同時に、自分自身もより高い生命に壊滅されることを、旧宇宙がいわゆる「自ら救う方法」だといいます。そのために、今回の修煉において、旧勢力はまだ除去していない修煉者の人心に目を付けて、修煉者が過ちを犯すと、旧勢力はそれを掴んで修煉者を壊滅させようとし、やり直す機会を与えません。一方、師父は慈悲心をもって何回も何回も修煉者にやり直す機会を与え、彼らに自分の問題を認識させて、更生させておられます。
旧勢力と同じように、相手に厳しく要求し、相手の良くできていないところを掴んで非難する修煉者がいます。同修の修煉状態が悪い時(もしくは妨害を受ける時)、彼らは理解と同情と助けを示すのでなく、ひたすら非難して見下します。また、自分を厳しく律して精進しているため、いつも「私でさえこれができるのに、あなたはどうしてできないのか」と、周囲の人に厳しく要求する修煉者もいます。実は、その考え方もやはり旧勢力の思惟で、一種の嫉妬心です。なぜかというと、修煉者おのおのの修煉環境が異なっており、因縁関係などが絡まっているために、修煉状態を比較することは難しいのです。
自分が見た現象をもって相手の優劣を比較評価しようとするのは間違っています。修煉者が修煉の中で執着や人心が湧いてくるのは正常なことです。自分の観念をもって同修の優劣を判定してはいけません。相手の不足を見た時、きっと執着心は除去できると信じてあげるべきです。見下したり、相手の修煉の道(みんなの修煉の道はそれぞれ違う)を否定してはいけません。
三、自分の執着心を自覚しないのは、表向きだけ立派な修煉者である
私自身も含む多くの修煉者は表面の変化だけを重視して、表面上で精進している修煉者らしく振舞うことばかり重視して、心の底に存在している人心に気付きません。例えば、1日に『轉法輪』を何講読んだか、1日にどれほど煉功をしたか、1日にどれだけ大法の仕事をしたかを重視する一方で、人心を取り除くことを疎かにしています。修煉の本質とは、心を変えることこそ真の修煉であり、真の向上になることをまだ理解していないのです。
清の時代の名著『閲微草堂筆記』にこのような物語が記されています。以前、人が死んだ後、閻魔王は「業の鏡」を持ち、その人の一生涯に行った良い事、悪い事がすべて鏡の中に映し出されます。閻魔王はそれによってその人の良し悪しと処置方法を決めます。宋王朝以来、社会の道徳が次第に低下し、人々は自分の本性を装う技がますます上手になったため、内心に隠されて表に現れていない罪悪は、「業の鏡」では映し出すことができなくなりました。天上の神たちは協議して、それらの偽善者を識別するために、また「心の鏡」を作ったといいます。
修煉者も常人社会の中で暮らしているので、道徳が時世に汚染される部分もあります。特に中国人は、自分の悪さを隠すのが非常に上手です。多くの中国人修煉者は、何かある時に「自分にはどんな執着心があるか、それを早く除去しないといけない」と考えるのでなく、すぐに言い訳を探して弁解し、自分が執着を隠していることをまったく意識しません。言い訳をして弁解することが習慣になれば、表面上は立派な修煉者のように振る舞っていても、心性の向上はとても遅いのです。
四、自惚れて、自分が誰よりも優れていると思う
旧勢力はみな自惚れの強い独りよがりの生命であり、自分が大法でも左右することができると自惚れています。多くの修煉者は、たいした能力を持たなくても、内心では「自分には能力がある、ただ発揮するチャンスに恵まれていないだけだ」と自惚れます。いったん少し実績をあげると、すぐ有頂天になります。周囲に褒められたら、ますます鼻が高くなって、とうとう自分の心より魔が生じる修煉者もいます。
大法と師父に済度される生命として、修煉者は師父と大法に常に感謝の気持ちを抱いて、着実に本質から自分を変えなければなりません。大法の中で自分の執着を満足させるために名、利、情を求めてはいけません。
法を正す時期の大法弟子として、旧勢力に虎視眈々と目を付けられても、多くの方面においてまだよく出来ていなくても、我々には師父と大法がついています。師父の言われるとおりに実行して着実に心を修めていれば、かならず旧勢力の按排と妨害を否定することができ、師父が按排された大円満の道を最後まで歩んでいくことができます。
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2015/7/3/151370.html)