明慧法会|自分をしっかり修める
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 文/山東省の大法弟子

 【明慧日本2018年1月25日】

 慈悲で偉大なる師父、こんにちは!

 同修の皆さん、こんにちは!

 1999年1月1日、姪が結婚し、我々妹たちが実家に帰って姉の顔を見ると、黄色く生気がなく、皮膚は垂れ下がっていました。姉に「どうしたの?」と聞くと、姉は「病気になった」と答えました。そこで私は「どうして病院に行かないの?」と聞くと、姉は「もう治らないからよ」。「気功を練習していたのではないの?」。すると、姉はどうにもならないという感じで「何の役にも立たなかった」。私は内心で心配し「これはどうすればいいものか?」と思いました。

 1カ月後の1999年旧正月3日、私たちが実家に帰り姉の顔を見ると、うっすらと赤みがさし皮膚のきめが細かくなっていたので、とても驚き「お姉さん、なんでそんなに顔色がいいの?」。すると姉が「煉功してよくなったのよ」。「何を煉功したの?」。「法輪功よ」。そこで、私は疑いながら「そんなに効き目があるの?」と聞くと、姉がまた「煉功を始めたその日にたちどころに良くなったわよ」

 正月9日、それは忘れることのできない1日でした。私は『轉法輪』を読もうと決め、なぜなら、1996年夫の姉が私に座禅を教えてくれた日だからです。今回は座禅をしながら、30分間本を読みました。そして、2ページ目の第2段落目の「人を済度するというからには、あなたはもはや普通の病気治療と健康保持のみにとどまらず、本当の修煉をしなければなりません」[1]を読みました。そして、私は心の中で「修煉? これこそが人を済度し修煉する、ということなのか?」と驚きました。

 私は急いで読み進め「常人の社会において、人々は奪い合ったり、騙し合ったり、個人のわずかな利益のために人を傷つけたりしますが、こういった心は全部捨てなければなりません。特に、今ここで功を学んでいる人は、これらの心をなおさら捨てなければなりません」[1]と説かれているところまで読んだ時、「これは私が探し求めていたものだ」ということにすぐに気がつきました。

 それから、師父は私の体を浄化してくださいました。そして「7.20」後、私は様々な環境で大法を実証し続けました。以下では、資料を作り、迫害を暴露する方面でのわずかな修煉体験について交流します。

 意志を粘り強く強固にし、心を込めて技術を学ぶ

 2004年、私たちの地区には資料を作る場所がなかったため、師父の説法を同修はタイミングよく読むことができず、資料が足りなくなったので、資料拠点を作りたいと思いました。しかし、資料拠点の設立を手伝ってくれる同修に接触することができませんでした。ところが10月に入ると、師父の心のこもった按排の下で、地方の同修が地元の同修に会いに来て「資料を作れる人に会えませんか」と尋ねて来ました。同修はすぐに私を呼びに来ましたので、喜んで引き受けました。

 私は不器用な人間なのです。地元の他の同修と一緒にパソコンとプリンターの知識を学びましたが、他の同修は電源のオンオフを学んだだけで学ばなくなってしまいました。しかし私は「私には退路はなく、なぜなら、同修が待っており、衆生が待っているからだ」と思いました。私は熱心に学び、学んでいるときはとてもよく理解しメモもとりました。しかし、教えてくれる同修がいなくなると、やり方が見つからず、どこから始めていいのかわからなくなりました。ちょっとした問題でも、どのように処理すればいいのかわかりません。しかし、私は苦労しましたが、あきらめませんでした。

 十数日後のある晩、協調をはかっている数人の同修と技術を教えている同修が一緒に集まり、協調をはかっている同修が、私に技術者の同修に対して別の地方へ行くように言いました。しかし、私には具体的な状況がわからず、技術者の同修が行ってしまったら、もう私に教えてくれる者が誰もいないと勘違いしました。そこで、私はその場に座り込んでずっと泣き続け、協調人の同修が食事に誘いましたが、食べませんでした。協調人は食事が終わった後「どうして泣いているの?」。私は泣いていたので口を開けられず、なんとか「まだマスターしていないのに、同修は行ってしまい、どうすればいいのですか?」。すると、協調人は「ぷっ」と吹き出し、笑いながら「なんで泣いているのかと思ったら、そのことだったの。大声で泣かなくても大丈夫よ、同修は当分帰えれず教えられませんが、私があなたに教えますよ」。それを聞き、私はすぐに泣くのをやめました。ただ「同修の言っていることは本当だろうか?」と思いました。

 私は賢くありませんが、法の中で生まれた強靭な意志を信頼し、マウスも握れなかった人間が今は、スムーズにシステムをインストールでき、DVDの読み書きやプリントなどができ、プリンターの修理を含め、サテライトアンテナの設置までできるようになりました。ある時、同修が真面目に行っていなかったので、不満に思っていると、同修は不機嫌になり、言葉で私を刺激しようとして「同修はみな、あなたは頭がいい人ではない、と言っていますよ」。そこで私は「そうよ。私がどうやって今日まで歩んでこれたと思っているの?」と同修に聞きました。すると同修は「何事も心を込めたからですね」

 何度もあったことですが、パソコンの初心者の同修がシステムのインストールの仕方を教わりに来たので、一通り教えると、同修は難しいと感じて学ばなくなりました。そして、いつも同修は驚いて「どうしてあなたはこんなにたくさんのことができるのですか? どうやって覚えたのですか?」と聞いてきました。そこで私は「一歩一歩覚えていったのです」。すると、同修はさらに驚いて「こんなにたくさんのことをどうして覚えられるのですか?」。私は一を聞いて三を知ることができる人間ではないので、ひたすら記憶に頼りました。ですので、時には同修に教え終わった時に、同修があれこれ聞いてくると、私は「わかりません」と言いました。しかし、同修は私のその言葉を信じられず、私が教えてくれないのだと勘違いしました。実際、他の同修が私に何かを教えてくれた時、私はそのことだけを学び、一般には他に何も聞きませんでした。他の同修はいつも好奇心があり、ある同修はソフトウェアを使わず、ある同修は違う方法を用いて行いました。しかし、私は同修が一つ教えてくれればその一つを学び、別のことは尋ねなかったので、比較的単純でスムーズに事が運びました。

 私たちは数人の同修が一緒に技術を学び、ある同修は教師で、実践能力が高く、一定の基礎知識を持っていたので技術を学んだ後、同修はみなその教師の同修に尋ねました。しかし、教師の同修は教えようとしなかったので、数人の同修とトラブルになりました。そこで、私は教師の同修を追いかけ、私に教えてくれるように説得しました。同修が囲んで下手に出て粘り強く交渉し、教師の同修がどんな状態を表そうとも私は怒らず、教師の同修が私に教えてくれるまで説得しました。するとそれ以後、技術に関していつもその教師の同修が助けてくれ、多くのことをその同修から学びました。

 文章を書く中で、師父が私の知恵を開いてくださった

 中学をまだ卒業していなかった時、私は授業で漢字とピンイン、単語の意味と例文の作成を習っただけで、その他のことは全くマスターしておらず、中学に通っていた時は、500文字の作文でさえ書くことはできませんでした。

 2004年の年末から資料の作成を習い始め、2005年初頭、同修が迫害に遭い、迫害を暴露するよう同修が私に求めてきたので、私は投稿を明慧ネットに送ろうと思いました。しかし、私は書くことができず、パソコンの前に座り、ほとんど丸一日の時間を費やしてもわずかな言葉しか書けず、それを明慧ネットに送ると、編集部の同修が修正して発表してくれました。私は同修がどのように修正したのかを見て、それ以後、その通りに書き直してきました。

 2007年夏、同修が迫害されたと聞き、同修の母親が留置場に行き同修の引き渡しを要求したことに私は感動し、同修の母親に尋ねに行きました。同修の母親は当時の状況を私に伝え、同修の母親の艱難を目にし、それを書いて明慧ネットに送りました。その後、編集部の同修がそれを修正し、文章は長くはありませんでしたが、まるで1編の文章のようでした。その時、私は少し悟りが開けたような感じがし、それ以後、再び迫害を暴露する報道を書いた時は内容が少し豊富になり、こうして少しずつ文章が書けるようになってきました。

 2009年、交流文章を1編書いた時、明慧ネットの編集部は少し書き直しただけで発表したので、私は自分の文章に対する確信が高まり、それ以後、迫害を暴露する報道が書けるようになりました。それはすでに簡単な知らせではなく、さらにしばらく経つと、交流文章を書くのにも手間がかからなくなり、時には、同修が文章を書くのを手伝うこともありました。

 2015年、江沢民告訴が始まり、私自身は手間がかからず、江沢民に対する1万文字以上の告訴状を書き、さらに、同修の分も書くと同修はとても満足し、事実をはっきりと書いた上に、同修の心理状態まで表現できるようになりました。またある時、文章を書いてもらおうと同修が会いに来ました。それで私は「あなたは国語の先生です、文章を書いてもらうために私に会いに来たのですか」と言うと、同修は「これは常人の書く普通の文章ではありません。ですから、私の低いレベルでは書けません」

 トラブルの中で内に向けて探し、自分をしっかりと修める

 私は個性が強く、しっかりした考えを持っています。このような性格のために、法の学び方が不足し、よい修煉環境に欠け、内に向けて探すことができず、だんだんと同修とのトラブルが突出して来ました。

 2012年、私は地方で中国共産党当局に不当に連行され、地元に戻ってきた後すぐに同修の家に行くと、そこでもまた不当に連行され、その日に出てきました。しかし、そのトラブルのために続けて連行されたので、同修はみな恐れてしまい、私に接触しようとしなくなりました。同修が私に接触したがらないことは理解できましたが、同修の安全を考慮し、自分が何をしなければならないかもわかっていました。しかし、同修は恐れて私に接触しなくなり、さらに、旧勢力に利用されてこの機会に私を孤立させ、私のいないところで、至る所で私の不足を言い散らし、さらにはデマまで撒き散らし、ほとんど全市の同修に対して私に接触しないように伝えていました。同修の安全のために厳しく非難すべきではありませんでしたが、同修の行為は度が過ぎていました。私は「彼らはどうしてこんなことをするのだろうか、どうして共産党が同修を迫害する手伝いをするのか?」と憤慨しました。私が憤慨すればするほど環境はどんどん悪くなっていきました。警官が私を尾行し、監視し、同修は私を孤立させました。私は心の中で「師父、私はまた悪くなってしまいましたが、彼らはこのように私に対するべきではないと思います」と師父に訴えました。私の心にかかるプレッシャーは大きくなりました。私は法の中で「難が大きくなると耐えられなくなり、人は反面に向かって行く」ということを知っていました。私はどうしたらよいのでしょうか? 師父の法は「執着があまりに重ければ方向に迷い」[2]と私に伝えていました。

 ある日、私は「他の人がどう思おうと気にせず、自分をしっかり修めよう」と思いました。このように考えると、気が楽だと感じました。その日の夜、夢を見て、目の前に大きな山があり、出所のわからない水(私自身を形容しており、なぜなら源を発している場所がわからないため)が大きな山頂から流れ、水は深く広く、紺碧の水に不純物がまったく含まれていないのかどうかはわかりませんでした。そして、水は上から流れてきており、上方も水であると感じました。すると突然、黄金色の本が水に流されてくるのが見え、私は一切を顧みずに走って取りに行きました。その本をすくいあげて手に取ると、表紙に『大圓満法』と書かれているのが見えました。私はページをめくりながら「さっき水からすくい上げたのだから水にぬれているはずなのに、なぜだか、中も外も全く濡れていない」と思いました。そして、目が覚めてから「自分をしっかり修めることが正しいのだ」とわかりました。

 それ以後、私の心は平和になり、あれこれを恨まなくなり、すべての人に対して穏やかな心理状態を保ちました。修煉とはこんなにも素晴らしく、本当に修煉したいと思うならば師父が助けてくださり、もともとの膨張してフワフワした心はすぐに落ち着いてきました。心が落ち着くのは一種の状態に過ぎませんが、何らかの過程の中で問題に遭った時、私たちはどのように認識し、どのように行っていけばいいのでしょうか。

 私の心が放下されてから、同修が続々と私に会いに来はじめ、同修はみな私の職場の環境の中で会いに来ました。なぜなら私の仕事は公共の場所での仕事だからです。ある時、ある同修が自分の家族の同修について話し出し、同修が話し終わった後、私は平和的に同修の問題について話しました。すると、同修は驚き、それは、私が話している時の心の状態がとてもいいと感じ、私の心の状態にしたがってすぐに気分がよくなったと感じたからです。また、それまで私を家に上がらせなかった同修は、他の人に手紙を届けさせ、同修の家に来るように言い、私が行きたいとか行きたくないとかにかかわらず、同修は多くの手間をかけて、どうして家に来ないのか、と私に聞いてきました。このようにして、私はこの関を突破し、再び同修の中に溶け込みました。

 大法の書籍を製作する過程で、心性を修める

 師父の詩『洪吟四』が出版され、同修はみな欲しがり焦りました。私はこの数年、本の出版を行っていなかったのに、突然、大法の書籍を作ることになりました。しかし、大きな紙切り包丁や大きな製本機、書籍を保護するための透明なカバーなどが何もなく、すべての条件がそろっておらず、ただプリントができるだけでした。そこで、私はプリントしながらこれらの工具を購入し始めましたが、買わなければならない機種が何であるかも忘れてしまっていました。そして、過去に使っていた紙切り包丁を見つけましたが、すでに他の人が使って切れにくくなっていました。私は焦り、同修も手伝おうとしましたが力になれませんでした。この時、私の仕事に対する執着が再び起きてしまい、そして一日一日と過ぎていっても、本の出版はやはり前途遼遠(ぜんとりょうえん・これから先の道のりが非常に遠いこと)でした。

 購入した機材が到着しましたが、規格が合わずに返品し、また注文し直し、そして、書籍を保護するための透明なカバーが届きましたが、ちょうどその時、他の同修が私の所に来て「ダメダメ、薄すぎる」と言いました。荷物を受け取った同修はそれを聞いて、相変わらず私に文句を言い始めました。しかし、同修に何を言われようと私は何も言わず、なぜなら、すでに我慢の限界に達しており、もし一言でも話そうものなら爆発していたからです。そのため、誰に何を言われようと私は黙々と作業し、黙っていました。そして「書籍を保護するための透明なカバーが薄すぎる」と言った同修は、私を笑いながら「あんな彼女の様子は今まで見たことがありませんね」と言いました。

 同修が帰った後、私の心の力は強くなり始めました。理解できたことからやればいい、という考えがすでに心の中に満ち、時にはわかり合えないことがあれば、なぜ非難されたのかを明らかにすべきであり、できることからやっていくべきなのです。自分が法に基づいていないことはわかっており、このようにしてはいけない、と何度も自分に言い聞かせました。しかし考えは定まらず、そこで、学法したいと思いましたが、心は全く静まりませんでした。そこで、第五式の功法を煉功し始め、最後まで煉功すると心は静まり、それから学法を始め、夜の12時まで学法してから正念を発すると、正念は特別よく発することができました。3時40分に携帯電話が鳴り、この時、ちょうど夢を見ており、夢の中で下腹部のところに両手の指くらいの厚さの腹の皮があり、そこにはびっしりと小さな目があり、たくさんの白い虫が外に向かって這っており、私が驚いて両手で虫を払い落としても、払い落としても、虫はプリプリとした感じで出てきました。師父が良くない物質をきれいにしてくださっているのだ、ということがわかりました。

 次の日、心が静まった時「昨日、なぜ言葉を発したら爆発しそうになったのか? 私は声をあげて何を言おうとしたのか?」と考えました。そしてすぐに「声をあげるということは弁解するということで、弁解する目的は自分を実証するということではないのか」と気がつきました。そして「自分を実証するには怒りが必要で、もし自分を実証したいと思わないならば、他人に『間違っている』と言われても、それはどうということもないのではないか?」とわかりました。そしてこの時、師父が説かれた「偶然のことはない」ということを私は確かに認識しました。実際、私が注文した書籍を保護するための透明なカバーはまったく間違っておらず、同修が普段使っているカバーが厚すぎただけでした。その後、しばらくしてから、どんなことに出会っても「偶然なことなどなく、トラブルに遭えば自分を探すべきだ」と考えることができるようになりました。

 心から他人のことを考え、縁のある警官を救い済度する

 2012年、私は不当に連行され、その特殊な環境の下で、鉄の椅子に手錠でつながれ、ある警官が私の手を触ろうとしました。それで、これは私に色欲心があるためだ、とすぐに気づき、たとえどんな状況であろうと、いかなる生命も大法弟子に対して犯罪を犯すことは許されない、と考えました。

 私は心を静めて「お兄さん、どのような罪が重いのか知っていますか?」と言うと、警官は「俺は知らん」。そこで私は「『万悪中の第一は淫事である』と言われています」。すると、自分が叱られているのだ、と警官はわかったようでした。そこで、私はこの方面の犯罪における因果応報について警官に伝え、さらに、人と人の間には縁がある、ということを伝えると、警官は私の話を聞く気になり、法輪功の真相と「三退」の真相も伝えました。

 警官は「大法弟子にこの仕事をやめるように言われたが、やっとのことでこの仕事についたのに、ここを離れたら、どこへ行けばいいのか?」。そこで私は「やめる必要はありません、どこにいても良い人になることができ、この仕事の環境でも、悪いことができるのと同じように良いことをすることもできます。たとえば、誰かを不当に連行する話を聞いたら、その人に事前に通知することができますし、もしできなければ仕事を怠けることもできます」。私の話を聞いて、警官は「お姉さん、わかった」。そして、厳粛に「お姉さん、脱党に同意するよ」。そこで私は「うれしいわ、神さまもあなたのために喜んでいますよ」

 3日目の夜、その警官がその場所を離れる前に「お姉さん、俺はあんたのために何もできんが、体だけは大事にな。明日やってくるのは、地元の法輪功修煉者が言っている悪いヤツの一人だ、くれぐれも体を大事にしてくれ」。そう言い終わると、警官は心重たげに去っていきました。

 その後やってきたのは25歳の娘で、監視員は4日ごとに変わりました。この娘と私との縁は大きく、私が話をすると娘はすぐには返事をせず、いつもしばらく考えてから、うなずき「確かにそうだと思う」と言うだけで、娘は私にはあまり話しませんでした。私が真相を伝えると、たてつくことはありませんでしたが、三退もしませんでした。

 最終日の朝、しばらくして、その娘はこの場所を離れることになり、私たちはおそらく二度と会うことはないと思われました。私は悲しくなり「あなたを救うことができないのがとても残念です」と思いました。そして最後に「三退しましょう」と言ってみました。しかし、娘は何も言いませんでした。おそらく1分以上経っていたと思いますが、娘は重々しくうなずきました。娘はどのように感じたのか、私が何も言い出せずにいると、娘が「どうして私が同意したかわかりますか?」。私は軽く頭を振り「わからないわ」。すると娘は「あなたが心から私のためを思って言っているからよ」。「そうなの」と私はうなずきました。

 最後に、師父のご慈悲とご加護にあらためて感謝申し上げます、ありがとうございます、師父!

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
 [2] 李洪志師父の著作:『精進要旨二』「心自明」

 (明慧ネット第14回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/11/19/356174.html)
 
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