心が動じないことの素晴らしさ
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文/ニューヨークの大法弟子 絹子

 【明慧日本2018年1月24日】常人の環境にいる私は毎日もっとも待ち望んでいるのは、退社後にグループ学法に参加し、同修たちと一緒に2講の『轉法輪』を読むことです。学法を終えたとき、心はいつも満足し、とても落ち着きます! 心の中に詰まっていた黒い雲のような不愉快さは、大法の洗浄を受けて消えていき、気楽さと俗世に向き合っていく力が生まれます。

 しかしある日、学法が始まるや否や、ある年配の同修は頻繁に咳をしたり、痰を吐いたりして、その音が一種の騒音になりました。それから他の同修も咳をしたり、席から立ち上がったりし始めました。私は自分の学法が著しく妨害されていると感じてイライラが募り、「1講を学び終えたら帰ろう」と考えました。

 何回も、私は自分が不満な心を持って、カバンを提げて出て行く姿を想像しましたが、立ち上がりませんでした。私は離れる適切なタイミングをずっと待っていて、たとえば1講を読み終えたときとか、または1段落を学び終えたときなどを心の中でずっと思案していました。

 その時、私は突然、邪悪から迫害されている中国の同修たちを思い出しました。彼らはあれほど劣悪な環境にいるにもかかわらず、この年配の同修の咳に邪魔されるより何倍もの妨害を受けているにもかかわらず、師父と法に対する確固たる信念をまったく揺るがしていません! それに比べて、私はどうしてこんなにも簡単に学法を諦めようとしたのでしょう?

 師父は「忍び難きは忍びうる。行ない難きも行ないうる」[1]とおっしゃっています。そこで、私は少し我慢して、心を動じずに一句一句をよく読んでいこうと考え直しました。

 ほどなく、その年配の同修は咳をしなくなり、普段よりもはっきりした声で法を読んでいました。ほかの同修たちもいつも通りの敬虔な姿勢に戻り、まじめに法を読み始めました。先ほどの咳の音や歩く音、水を飲む音、そして不平をこぼす声などはまるでなかったようでした。

 こうして、学法はとても穏やかな雰囲気の中で終わりました。

 グループ学法は本当に自分を向上させるよい機会です。学法を通じて内に向けて探すことができれば、きっと心性の向上および周囲の変化が見えてきます。

 もし、私は最後まで2講の学法を終えることをせず、離れることを選択したならば、恐らくその咳をしていた年配の同修を怨みながらグループ学法に参加したくなくなり、自分の修煉を停滞させてしまったかもしれません。

 心性を修める機会を放棄するということは、功を伸ばす機会を放棄するのと同じです。

 心が動じないときの素晴らしさを味わう機会を頂き、師父に感謝しています!

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2018/1/21/359866.html)
 
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