常人社会に執着するか、全力でダッシュするか
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文/中国の大法弟子

 【明慧ネット2016年5月25日】自分自身の浄化を重視せず、法の下で己を修めていないために人心が多いなどの原因により、自らの天体の衆生が救われないだけでなく、自分自身にも危険を及ぼしています。また江沢民を告発する活動に参加している同修が妨害された主な原因でもあると思います。

 精進していない同修の空間や天体に黒い魔の手が入ったり、良くない思想や観念、業力、そして外来的な要素などに妨害されたりするのをよく見ます。これらの邪悪な魔の手は同修を迫害するだけでなく、師父が法を正すことや大法弟子が交流し合うこと、全体的に精進することなどを妨害しており、また、お互いに隔たりを作り出したり、邪悪な警官を駆使して同修を連行させたりします。このような同修が発正念する時、邪悪を消滅しながら、同修の空間場に邪悪な要素を送り込んでいるのをよく見かけます。そこには様々な動物が入った邪悪の工場があり、もし、同修に人心があると、すぐにこれらの動物を自分たちの空間場に招き入れてしまいます。時間が経つと、積もりに積もった悪い要素を消滅することが困難になり、現実では誘拐や病、死などを引き起こすことになりかねません。しかし、このような時に発正念をしても完全に邪悪な要素を消滅させることはできず、まだ人心を取り除いていないため、すぐにまた邪悪に養分を補給することになるでしょう。

 正直に言えば、自分自身が法の下で修煉していないことが主な原因です。ですので、内に向けて自分自身を探し、法を多く勉強して執着心を取り除き、真に精進することこそが最も重要です。師父が按排された道を歩むことができなければ、旧勢力が下した様々な機器やメカニズムなどを消滅させることはできず、却って旧勢力が按排した道を歩むことになってしまいます。このような情況に陥っている同修は皆危険にさらされています。そのため、しっかりと法を勉強し、自分自身の空間場をきれいにすることが非常に重要です。

 一部の同修は修煉の厳粛性をまだ理解していません。人の目に見えている精進と別空間で見る精進には天地の差があります。近頃、多くの大法弟子がそれぞれのゴールへ向かってラストダッシュしているのが見えます。1人1人が満開の蓮の花が映っている『轉法輪』を抱えており、まるで大法弟子の修煉がもうじき終わりを迎え、圓満成就することを意味しているようです。前を走っている大法弟子の威徳が高く、その世界はとても素晴らしく、各次元には師父が大法弟子を迎え入れておられるのが見えます。しかし、後ろから走っている同修の空間場は暗闇に包まれ、その足元には蛇がのた打ち回り、そして邪悪は何かの機会や理由を見つけては同修たちを地獄へと引きずり下ろそうとしています。その上、彼ら自身にもそれぞれの人心があり、映画やドラマ、ネット、カードゲーム、名利、地位、財産、男女の情、「LINE」、ショッピング、楽をしたいなどの様々な執着心によってこの世の中に嵌り目を覚まそうとしません。そして、これを人間の楽しみや最大限に常人社会に合わせるなどと言い訳して、師父が巨大な忍耐と引き換えに我々のために延長してくださった時間を無駄にして、自分たちの故郷と人間界に降りてきた理由を忘れているのです。

 無用のものを弄んでいると壮志を失うように、各自の好みや執着していることに隠れこんでしまうと自らの責任を忘れ、努力や精進をしなくなります。自らの心、個々の感情を抑えなければ自我を失ってしまい、迷いと放埓に陥ることになるので、時間が経つと空虚と麻痺になりかねません。常人の感情と名利を追求すればそれは常人でしかありません。しかし、我々は修煉者ですから、常に法を用いて自ら内に向けて探し、法理で自分自身の言動を図ることこそ精進する修煉者と言えるのです。

 
(中国語: http://www.minghui.org/mh/articles/2016/4/29/327049.html )
 
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