法がこの世を正すことを喜ぶべきか、憂うべきか
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文/中国の大法弟子 紅蓮

 【明慧日本2016年4月22日】法がこの世を正すことを喜ぶべきか憂うべきかは非常に重く、かつ厳粛な話題であるため、ここ数日間、気持ちがずっと沈んだままでした。法がこの世を正す日はいつか誰も予測できませんが、今日の形勢の変化を見ればその日は遠くないと感じます。

 迫害が終わり、師父のご恩と大法が迫害されている真相が世間に顕彰されることは、大法弟子一人ひとりが長い間待ち望んできた喜ばしいことです。しかし、それは法を正す時期が終結し、我々大法弟子の修煉が終わり、それぞれの位に帰ることを意味しています。けれども、我々の位は一体どこにあるのでしょうか。真に大法弟子としての基準を満たしたでしょうか。何の後悔もなく、光り輝く神になれるでしょうか。今まで自分自身の怠慢を思い出すだけで、その日が来ることを心配してしまいます。いつかその日が来たら、きっと私はすべての常人の心をきれいさっぱり取り除いていないことを恥ずかしく思い、救うべき衆生を救えなかったことを後悔するでしょう。

 法を正す時期の大法弟子として重要な使命は衆生を救うことであるのに、ここ数年間、自分が三退させた人数は口にするのも恥ずかしいほど少ないのです。『明慧週刊』に載っている交流文章の中で、毎日数十人もの人を脱退させる同修と比べれば、まさに雲泥の差です。縁のある人に出会った時、真相を伝えるよい機会なのに、自分自身のくだらない考えに妨げられて、なかなか口を開くことができませんでした。この背後にあるのは、迫害されることを恐れる心、拒絶を怖がる心、嘲笑されたくない、他人の目が気になるなど、様々な心があるために口を開くことが出来ず、良い機会を逃してしまうのでした。

 彼らの背後にある大勢の生命がどれだけ失望するのか想像する度に、今の状況を突破できない自分自身を責めました。このような自分がかつての誓約を果たすことができるでしょうか。今世は縁があって法を得ることができましたが、もし、法に出会わなければ、私は一体何のために生きているのかと何度も想像しました。家族のために生きるのでしょうか。それでは一体誰がそばにいてくれるのでしょうか。名誉のためでしょうか。しかし常人の名誉とはどれほどのものでしょうか。利益のためでしょうか。しかし常人の一生の福と禄は生まれた瞬間にすでに決められており、何のために争うのでしょうか。師父の慈悲なる済度により、自分が何のために生きているのか分かり、また、この繁雑で茫漠とした人生で生き甲斐を見つけ、迷うことも彷徨することもなくなり、世間の無常さを恐れる必要もなく、心の底から強く、寛大になれました。

 我々大法弟子は大法の中で多くの恩恵を受けましたが、何をもって師父のご恩に報いることが出来るでしょうか。それは衆生を救うことなのです。たとえ、師父のためではなく、自分自身の威徳を建てるためでも1人でも多くの常人を救うことが師父のご恩に報いることなのです。残された時間が日に日に減っていく中、恐怖心を取り除き、堂々と真正面から真相を伝えることこそ自分がなすべきことです。そうしなければ、法を正す時期が終われば、やりたくても時はすでに遅く、一つ一つの生命が消滅していくたびに、後悔と遺憾が大きくなっていくでしょう。

 長い間、法を勉強するときも、煉功をする時も、発正念の時でさえも、完全に心を静めることができませんでした。表では平然としていますが、内心はまるでお祭りのように様々なことを考えてしまい、妨害も激しいものでした。そのため、今では、『轉法輪』を勉強するときは、1段落ずつ暗記しています。暗記するには集中力を高めなければなりませんので、妨害を減らすことができます。しかしながら、煉功や発正念の時は無意識にまた別の事を考えてしまいます。心を静めることができなければ、煉功も発正念もすべて無駄になってしまい、正念に威力がありません。特に近頃では、睡魔による妨害が激しく、第五式の功法を煉るとき、座っていると、いつの間にか意識がなくなり、頭ががくんと落ちてしまいます。1日も早く思想の中の雑念を排除し、はっきりした意識を持って発正念や煉功ができるよう努力していきたいと思います。

 修煉を始めてすでに6年経ちました。しかし、個人の修煉に関しては、名利を求める心や闘争心、嫉妬心、人を恨む心など、まだ多くの人心を取り除いておらず、何かあればこれらの人心がすぐに現れてきます。修煉する前は、これらの執着心を特に悪いとは思わず、人間にはいろいろな意見もあるので当然のことだと考え、よいことをすれば褒められるべきで、誰かに悪いことをされた時は、たとえ相手を恨んでも悪い事ではないと、ずっとそう思っていましたが、今分かリました。神に向かう道を歩んでいる修煉者にとって、いかなる執着心もあってはならず、世間の損得を争ってはいけないのです。これができなければ、「大法弟子」という称号に相応しくありません。

 次に江沢民を告訴する活動についての体験を交流したいと思います。はじめは、迫害を受けた同修が告訴状を書くのは彼ら自身の事であると思っていました。しかし、明慧週刊に同修たちの交流文章が載っているのを見てから、大法弟子全員が江沢民を告訴すべきであり、もちろん、迫害を受けていない学習者も告発すべきであると考えを改めました。きちんと法律を守ってごく普通の生活を送っている国民が、憲法によって守られている信仰の自由を失い、正々堂々と学法や煉功をする場所を失えば、それはまさに自由に呼吸できなくなることと同じです。

 常人社会では信仰の自由を守ると言っていますが、我々大法弟子にとっては法を正す環境を壊されたことなので、告発しなければなりません。私自身が告訴状を書いて郵送しようとした直前、週刊と明慧ネットにいくつかの地域で、告訴状を書いた同修が連行されたという情報がありました。これを見た瞬間に心が揺らいだのです。これは結構危険なことで、告訴状に書いてある情報はすべて本名と住所であり、何よりも身分証のコピーに拇印まであります。しかし、今まで大法弟子は常に師父に守られてきました。師父のご恩は海よりも深いのです。このような師父と大法のためにできる絶好のチャンスがある今、退いてはいけません。

 迫害を求めるつもりはありませんが、この告訴状を提出して、万が一、中国共産党の手先が自分の所に来て、自分の身に何か起きたとしても、私は決して後悔などしません。正々堂々と彼らに大法が迫害されている真相を伝え、自分が法を得てから今までの修煉の過程を教えれば、例え旧勢力に操られていても、きっと心のどこかで分かってくれると、私は信じています。その時の気持ちは「例え命を犠牲にしても、自分の行動を誇りに思う」というものでした。心を決めた時から、1日たりとも待たずに告訴状を整理し、協調人と連絡して発正念をしてもらい、6月19日の朝8時に郵便局に行って裁判所と検察院に送りました。そして20日の午後に受け取ったという返事をもらったのです。私は自分自身の行動を誇りに思っています。今まで、発正念をしても、面と向かって真相を伝えても精進していませんでしたが、今、ようやく大法弟子としてすべきことをし、一刻も早く迫害を終わらせるために自分にできることをしたのです。

 我々大法弟子に残された時間はもうありません。同修たちと交流することで、自分の執着心を早く取り除き、邪悪の要素を突破して精進していきたいと思います。

 地域の古い大法弟子たちによる協力に感謝します。2013年に、病による難関を乗り越えるときも、まだ長時間座禅できなかった時も、全て彼らが励ましてくれ、普段学法する時に座禅すれば慣れてくるなどと助言してくれたおかげで、乗り越えることができました。

 我々大法弟子は、常人の家族の絆よりも深い縁で結ばれています。我々は大法を学び、師父に守られているので、切っても切れない一体なのです。お互いに助け合い、共に精進し、法がこの世を正すとき、遺憾と後悔が残らないように最後の時をしっかり歩んでいきましょう!

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/3/29/324608.html)
 
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