ただ待つだけでは、正法時期の結末は来ない
■ 印刷版
 

文/一言(海外)

 【明慧日本2015年10月11日】正法時期の修煉が始まって16年あまり経ちました。最近、私は江沢民に対する告訴から、私たちが避けては通れない問題があると考えさせられました。この16年来、私たち法輪大法の7千万人の学習者の中で、真に「無私無我で、他人を優先に自分を後にするという正覚」を修めている者は何人いるでしょうか? 「法を正す師に手伝うこと」を人生において何よりも重要視している者は何人いるでしょうか? 精進しているのは数十万人、数百万人だけに留まっているのではないでしょうか? 他の数千万人の同修(少なくとも半数以上)はやるべきことをやらず、あるいはやり方が分からず、あるいは神になろうと望みながらも人間の執着を放下せずに中途半端にやっていたり、又は疲れてやるべきことを止めているのではないでしょうか?

 1992年5月から1999年7月までの間、大法の本を読み、煉功していた人は師父が望まれた人数で、少なくとも1億人いました。本来師父は2億人を望まれていました。旧勢力は迫害によって、1999年の上半期に大法を修煉し始めてまだ十分に修煉の土台を築き上げていない3千万人を削り落とし、7千万人を残しました。16年来、もし毎日大法に使われた時間、救った衆生の人数、または行った大法の仕事の量など、これらの目で見えるもので考えると、真相を伝えることと衆生を救うことを継続して行い、大法の中で精進し、絶えず向上してきた修煉者は、1千万人にも満たないのではないでしょうか? また数千万人の修煉者は大法から離れていないものの、師父の法を正すことを実現させるための按排や需要を最優先にしていなかったのではないでしょうか? 各地の状況からみると、その可能性は非常に高いものと考えられます。

 言い方を変えると、国内外の大法弟子は皆が気付いたと思いますが、1999年以前に修煉し始めた多くの大法弟子は能動的に学法し、煉功も怠らず、常人の生活や仕事を順序良く行い、常人の生活や個人修煉に支障をきたさないよう「自然に」真相を伝え、成果を上げています。他の多くの大法弟子は学法や煉功をきちんと行えず、自分自身でさえ正法の終結が必ずやって来ることを信じず、残りの人生や常人生活の営みに没頭し、益々常人と変わらなくなっています。また、別の多くの大法弟子や学習者は時間に執着し、絶えず終結の兆候を探しており、結局判断ミスによって興奮と失望が繰り返す中で、常人社会の人や物事によって何らかの妨害を受けてしまいました。

 消極的期待であれ、積極的期待であれ、正法の結末は待つだけではやって来ないと思います。待ち続けた結果としての結末はきっと期待とは違い、きっと後悔しきれないものだと思います。

 師父は2007年7月22日の『米国首都での説法』の中ではっきりと仰いました。「法を正す時期に、大法弟子は将来の衆生が救われることに対して責任があります」、「人類が大淘汰される中に、一部の良い人が未来の人間の種として残され、同時に、法がこの世を正す時期に大法のために、人類が大法に恩返しするという栄光の時期を切り開く必要があります。つまり、大法の人類社会での全盛期が現れるということです。これは歴史の中で必ず現れることです」

 また『二〇一二年米国首都国際法会での説法』の中で、師父は再び大法弟子に明確に諭されました。「歴史は前進し、道は前へと進んでおり、天が変わろうとすれば、誰も阻止することはできません。皆さんはこの過程でできるだけ多くの人を救い、彼らが残るようにすべきです。そうですね。大法弟子として、皆さんに教えますが、本当により多くの人を救うべきです。なぜなら、当初、私は次のように按排したからです。つまり、人間が未来において大法に恩返しすることを按排しました。すなわち残った人が大法のために最も輝かしい時期、全盛期を切り開くのです。人間はこのことを実行しなければならず、わずかの人しか残っていなければ、どのように実行するのでしょうか?」

 天機は全て開示されました。十分な衆生が救われて初めて正法の目標が実現されます。しかし、人間社会で「大法の為に最も輝かしい時期を切り開く衆生」はただ待っているだけで得られるものでしょうか? 常人生活の営みの中で実現されるものでしょうか? 消極と失望の中にいて実現されるものでしょうか? 仏の国と人間社会との間を行ったり来たりしていて実現されるものでしょうか? 個人修煉のみによって実現されるものでしょうか? それらが絶対に不可能であることは皆さんがはっきりと知っています。しかし、多くの同修は師父の教えが正しいと知りつつ、自分の考えに沿ってわがままに行動し、師父の教えを法理として理解し受け入れることもせず、単なる情報としてしまいました。 

 人間の観念や習慣は頑固なもので、人間の理、人間の情、人間の観念は幾千年経て形成されました。現代社会の誘惑も多種多様で数えきれないほどあります。私たちは一体何ものでしょうか? 何のためにこの世に来たのでしょうか? どこから来てどこへ向かっているのでしょうか? 師父の仰った法理は自分の観念に符合すれば受け入れ、符合しなければ理論として学び、と同時に人生と大法の良いどこだけを享有し、あるいは、大法の内容を選んで学びます。これらはよく見られる現象です。故意ではないかもしれませんが、少なくとも人間の観念や習慣をはっきりと排斥したり、取り除いたりはしていません。

 私たち数千万人の学習者がやるべきことを神韻を主導されている師父に委ねましょうか? 道義上、師父は上にいらっしゃって、私たちは下にいます。一般的に年齢順から考えても、私たちの多くは師父より若いです。どうみても私たちはもっと努力し、師父の心労を減らすべきです。人間の誘惑や執着に惑わされて消沈し、衆生を救うことを師父に押し付けてはいけません!

 多くの同修は学法や煉功に大量の時間を注ぎこんでいますが、できれば時間を割いて、衆生を救う日々の修煉の体得を書き出して明慧ネットに投稿してほしいのです。未来の人間社会で実現される師父の仰る「大法の全盛期」は7000万人~1億人の大法弟子の努力によってできた結晶であることを願います。過程も結果も重要で、両者は分離できません。

 以上は今の修煉段階での個人的な考えですが、全てが正しいとは言えず、言葉を整理をしたり飾りをせずに投稿しました。真心から願いたいのは、私たちは心が麻痺してはならず、習慣を自然化せず、待ち望んでいる結末が修煉の妨害にならず、真に結末がやってくるときに手を胸に当てて、師父に大変申し訳ないと思わずにいられることです。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2015/9/23/316215.html)
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2015/9/29/153007.html)
 
関連文章