文/中国の大法弟子
【明慧日本2015年3月21日】同修の文章「自分が良くないと言ってはいけない」を読みました。この問題について、私にも同じ体験があり、それがひとつの落とし穴だと思いました。「自分は良く修めていない、自分が良くないと思えば、旧勢力に迫害される」、この考え方は同修の中でかなり流行っており、そのため、多くの同修は、自分が良く修めており、高く修めており、しっかり修めていると思うようにしています。
同修の間では、人為的に自分を高く評価する雰囲気があります。自分は偉い、他人のほうが内に向けて探すべきだと思う人が多く存在し、一部の人は、口々に内に向けて探すと言いますが、潜在意識の中では、やはり自分が凄いと思っているようです。その深層心理には、もし自分は良く修めていないと思えば、迫害されてしまう、迫害されるのが怖いから、自分は凄いと思うような考えがあるからです。
私達は心を静めて、法に照らして見れば分かるはずです。法の中に、自分がよく修めていなければ迫害されるという教えはありません。一方、自分が凄いと思うのはとても危険です。この心が芽生えてしまうと、それは自分の心より魔が生じる前兆となるのです。
自分のよく修めていない所を見出すことは、自分が法との間の距離(口だけに留まらず、確実に修めなければならない)を見つけることで、それは精進していることを意味します。なぜそんなに恐れる必要があるのでしょうか? 1人の修煉の道を歩む修煉者として、たとえ、たくさんの仕事をして来たとしても、ほんとうに自分が偉いと思ってはいけない、と私は思います。私達は最後に円満成就にまで修めなければ何の意味もありません。師父は「円満成就するまでは何者でもありません」[1]とおっしゃいました。法の中で、大法弟子は素晴らしいと言及されましたが、しかし、これらのことはけっして人心で図ってはいけないものです。
「自分が良くないと言ってはいけない」という考え方は、同修の中で、あまりにも流行っています。実は、この考え方は大変危険です。この観念を放下しなければ、その次には顕示心が生まれ、そして、自分を高く評価し、自分が偉いと思う心が浮かび上がり、その人は、自分の心より魔が生じる境地に陥ってしまうかもしれません。とても恐ろしいことです。私の周りの知っている同修の話だけでも、一部の人の潜在意識には、自分はすでに佛、道、神になっており、法が世間を正す時の白日飛昇を待っているだけだという考えを持っているのです。幸いなことに、これらの同修たちは天目を開いて修めているわけではありません。もし、天目が開いていれば、何が起きるかは想像も出来ません。このような誤った考え方によって、一部の同修は心を静めて法に照らして、自分の本当の修煉状態を見つめることができません。この状態は危険ではないでしょうか?
同修との付き合いの中で、いくつかのでたらめな言い方が流行っていることに気がつきました。これらの考え方はすべて人の正念と正しい悟りを妨害するものです。しかし、これらの考え方のほとんどは、ネットに掲載された同修の交流文から来たものです。私は大法弟子のこの交流プラットフォームをお借りして提案をしたいのです。正見ネットの交流文章、特に大法弟子の交流体験に関する部分の内容は、私個人の考えでは、審査が実に甘いと考えています。もっと厳しく審査をしてから発表していただけないでしょうか。「いたずらに量が多いより、むしろ少ないほうがよい」と思います。私は同修を非難する資格はありません。しかし、確かに多くの文章には問題があると私は思いました。
同時に、同修たちにも注意を促したいのです。体験文章はあくまで修煉者の体験文章に過ぎません。大法弟子は法の中から得た理性と知恵で、文章が法に合致しているかどうかを判断し、その良い部分を吸収するようにすべきです。人に学んで法を学ばないようなことをしてはいけません。
以上は個人の体験です。次元の限りがありますので、適切でない所があれば、同修のご叱正をお願いします。
注:
[1] 李洪志師父の経文:『各地での説法十一』「二十年説法」