修煉は自分の圓満成就のためですか?
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文/海外の大法弟子

 【明慧日本2016年5月24日】ある日、同修から「もし修煉において、圓満成就がなければ、あなたは今日まで堅持することができますか?」と聞かれて、私は無言になって、しばらく呆然としていました。

 同修の質問を受けて、私は自問しました。確かに、修煉において圓満成就がなければ、特に中国共産党による迫害が十数年間続いてきている中で、私は今日まで修煉して来なかったと思います。私たちの修煉の目的は何でしょうか?

 師父はこうおっしゃっています。「修煉の最終目的はほかでもなく、得道して圓満成就することです」[1]。 そうでなければ、私たちは何のために修煉しますか? 目的もないままずっと修煉していくことは考えられません。圓満成就のために修煉するのは間違いではありません。しかし、なぜ同修は私にこのような質問をしてきたのでしょうか? 偶然ではないでしょう。私はいまだに圓満成就に執着しているのでしょうか? 数年前、私は自分の根本的な執着は圓満成就だということに気づき、交流文章まで書きました。しかし、気づいたからと言ってそれを取り除いたとは言えません。やはり、その執着心はまだ残っているでしょう。もしかして、当時の次元において取り除いたものの、次元の向上に伴って、また生じたかもしれません。やはり真剣に内に向けて探さなければならないと思いました。

 正法時期の大法弟子として、法を正す師に手伝い、衆生を救うことは私たちの使命と責任です。以前、衆生を救うことを行う際、情熱がありました。恐れる心もありましたが、自ら行ったり、または同修に協力していました。今の自分には、なぜ以前の情熱ややる気がなくなったのでしょうか? 当時の情熱も完全に衆生を救う気持から来ていたのでしょうか? 違いました。当時、内心の深い所に、自己の圓満成就を願う気持ちが隠されていました。師父は説法の中でこうおっしゃっています。「法を実証する中で大法弟子としてやるべき三つのことをしっかり行うことができれば、全てがその中にあります」[2]。 ゆえに、当時の私は一生懸命に頑張りました。なぜ今の自分からその情熱が消えたのでしょうか? ここ数年、結構やってきたので、圓満成就はもう問題ではないでしょう。心身ともに疲れてきて、ここで何もしなくなれば落第することもありうることを考え、形式的にやったり、したいことだけをやったり、同修に協力しても気が進まず、様々な方面で怠惰になっていました。

 圓満成就を自分の修煉の原動力とした場合、それは言うまでもなく「私」の心です。師父は無私無我で、他人を優先し自分を後にする覚者になって、初めて新宇宙の生命になると教えられています。旧宇宙で生まれ、その属性である「私」を持つ自分は往々にして自分の事を先に考え、例え表面上他人のためにと振る舞っていても、実質は自分のためという部分が含まれています。しかし、新宇宙の生命は完全に他人のため、公のためになっています。これは修煉を通じて必ず到達すべき次元です。

 普段、自分の慈悲心が足りないと口癖のように言いますが、何をやっても利己的で、基点がずれていて、心構えが純粋でなければ、慈悲心はどうやって生まれるでしょうか? 師父はこうおっしゃっています。「もちろん、個人の圓満成就は何よりも重要なことであり、自分自身が圓満成就できなければ、何を言っても無駄です」[3]。 私たちが圓満成就しなければ、私たちの衆生は行くところがなくなり、全てが水の泡になってしまいます。佛や大覚者は衆生のために全てを切り捨てることができます。しかし、何をやっても真っ先に自分のことを考える私はどのようにして新宇宙の生命基準に達することができるでしょうか? 以前の修煉は自らの圓満成就だけを目的とし、深山や寺院に入り、苦労を舐め尽くし基準を満たしたものだけが圓満成就できます。しかし、正法時期にいる私たちは法を正す師に手伝い、衆生を救う使命や責任を背負い、もっと高い基準が課されています。三つのことを行う過程で自分をよく修め、他人のため、衆生のためという基点に基づいて物事を行って初めて神聖かつ良い効果を得ることができます。

 同修の質問によって、私は自分の修煉における漏れに気づくことができました。普段、自分はよくできていると思っていましたが、実際の所、私心が取り除かれていませんでした。着実に自分の心を修めて初めて大法が要求する基準に達することができます。そうでなければ、いくら多くのことを行っても、漏れがあることに変わりありません。私たちの修煉は人心を真っすぐに指すもので、心性が向上して初めて師に手伝い、衆生を救う使命と責任を果たし、師父の慈悲なる済度に報いることができます。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪
 [2] 李洪志師父の著作:『各地での説法四』「二〇〇三年アトランタ法会での説法」
 [3] 李洪志師父の著作:『二〇〇三年元宵節での説法』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2015/10/21/317903.html)
 
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