「知っている」ことと「分かっている」ことの違い
文/遼寧省の大法弟子
【明慧日本2018年3月5日】今日、数年前のある出来事を思い出しました。それは、数人の同修(そんなに年は取っていない)が、病業の形で亡くなったことです。彼らには共通点があり、師父の法理を全て知っていると思っていたことです。同修たちも「彼らは私たちより法理を多く知っている」と話しました。
このことについて、私の個人的な悟りですが、みんなと交流したいと思います。つまり「知っている」ことは必ずしも「分かっている」とは限らないのです。私は幼いころ沢山の漢詩と宋詞を暗記しましたが、未だにその意味が分からないものもあります。
「知っている」と「分かっている」の意味が違います。しかし、多くの人たち(同修も含む)は、同じ意味に捉えています。例えば「法輪大法は素晴らしい」と念じる人たちは「法輪大法は素晴らしい」の意味が分かったので、災難から逃れ救われました。しかし「知っている」だけの彼らは、「法輪大法は素晴らしい」と念じることは知っていても、中国共産党からの誹謗中傷で、法輪功の真相さえ聞こうとしないので、大法の素晴しさとは何かが分かるはずがないのです。
真相を伝えるとき、師父は「しっかり真相を伝えるように」と教えて下さいました。ただ「真相を伝える」だけではなく、「しっかり真相を伝える」ということです。私の理解では、この「しっかり」というのは、「知っている」ということと「分かっている」ということを区別することであり、それは衆生を救えるかどうかの問題に関わっています。
個人的な悟りですので、法に基づいていないところがあれば同修のご指摘をお願いします。