文/中国の大法弟子
【明慧日本2019年3月26日】大法を修煉して以降の10年間、一部の「執着心」は繰り返し現れ、時には強烈に出てきます。「これは常人社会で修煉するという大法の特殊な修煉形式によるものだから仕方がない」と思い、ついつい自分自身に課す厳しい要求を緩めてしまいました。真に法理に沿って悟っておらず、ただ単に、常人の理を持ってむりやり自分を束縛してきた私には、修煉がすごく難しく感じ、特に「怨む心」や「嫉妬心」を取り除く過程で疲れてしまい、とても苦しかったです。
最近、同修と交流する過程で、自分の執着心の背後にある根本的な原因を深く掘り下げていくうち、パッと法理に沿う認識を得ることができて、心が晴れやかな感じを覚えました。それを書き出して、同修の皆さんと交流したいと思います。
嫁ぎ先のご両親が雲泥の差があるほどの「わけへだて」を持って、自分の2人の息子や息子の嫁に接してきたことに対して、私はずっと「嫉妬心」と「怨む心」を抱いてきました。数年来の修煉を通じて、それらの心を取り除きながら、私は舅や姑、夫の弟一家に対しても、経済面や他の方面で譲ってあげたり、思いやってあげたりして、皆と和やかな雰囲気の中で一緒に暮らしてきました。しかし、時には心のバランスが崩れることもあって、自分はまだまだ完全に放下していないと内心では分かっていました。夫は小さいときから親戚の家に預けられ、学校に通う年頃になってやっと両親の元に帰りました。そのため、舅と姑はずっと夫の弟を依怙贔屓(えこひいき)し、兄弟2人がそれぞれの家庭を持つようになった後も、彼らは夫の弟一家をずっと依怙贔屓してきました。他人から見ても、私たちが舅と姑から、とても不公平な待遇を受けてきたのは一目瞭然でした。
師父はこのようにおっしゃっています。「今までは絶対平均主義が実行され、人間は生まれた時はみな同じで、後天が人間を作り替えたのだ、という言い方をしてきました。それはあまりにも極端な言い方で、どんなことでもあまり極端にいくといけません」[1] 、「高い次元から見れば、他の空間に人の一生涯のすべてがそこに存在しているので、同じであるはずがあるでしょうか? 何でも平均化したがりますが、運命の中にそれがなければ、どういうふうに均等にするのですか? 違うものは違うのです」[1] 、「人間は迷いの中で悪いことをしかねませんが、佛教ではそれを因果応報と言っています。 人間に何か魔難があり、良くないことが起きた時は、すべて因果応報の中で、業を返しているのです」[1]
そこで私がハッと分かったのは、舅と姑から不平等な待遇を受けて怨みや嫉妬心が生じ、そのような心をどうしても取り除くことができなかった根本的な原因は、ずっと常人の「公平」という理を持って遭遇したトラブルを判断し、法理に則て悟ることをしなかったからです。私はずっと舅と姑に常人の「公平」という理で私たちに対応するように求め、法理にある「業力の転化」に沿って問題を認識していませんでした。
このことを悟ってから再び似たような「不公平」な待遇に出遭う時、私は直ちに常人の「公平」の観念を排斥し、とても楽に関を乗り越えました。そして夫の弟一家に対して、本当に心から思いやりを持って接するようになり、淡々と自我を放下し、無私無我で他人を優先し、自分を後にすることの素晴らしさを体験することができました。
実は、多くの執着心を取り除くことができないのは、私たちは法理に沿って問題を認識しておらず、「人間の理」と後天的に形成された「人間の固有観念」に左右されているからです。それらに縛られて、どうして人間の殻から抜け出すことができるでしょうか?
毎日、三つのことを行なう中で、私はいつも「時間が足りない、こなすべき仕事が多い、ストレスが大きい」と感じて、眉をひそめてイライラする時もありました。また、正法時期の大法弟子が引き受けた歴史的使命が重いので、この状態が正常かもしれないとも思いました。最近、学法を通じて以下のことを悟りました。「法をよく学んでいて、きちんと自分を修めていれば、このような状態が現れるはずはありません。なぜなら、常に慈悲で穏やかであるのは修煉者のもっとも良い状態のはずです。マイナスなことを考えてイライラし出す私は、人間の理に嵌(はま)って常人の状態になり、心性を保つことができなくなり、真相を伝える際は拒否され、罵られ、それで落ち込んでしまい、三つのことにも影響を及ぼしました」
実は、焦る気持ちの背後には「求める心」が隠されているのです。良く行ないたい、多く法を学び煉功もしたい、多くの衆生を救いたいなどなど、あれもこれもしたいと思うのは、すでに求めているのです。時間が足りなくても、やるべきことが多くあっても、着々と行なっていけば良く、多くの事を考える必要はありません。法理に則て自分を修め、何の「求める心」も抱かなければ、師父は一切を安排して下さいます。師父が挙げて下さった例のように、いつも大学に受かりたいと考えず、黙々と勉強に励んでいけば自然に大学に受かるのです。
法をよく学び、どんな時も法理に照らして自分に要求し、常人の理ではなく、法理をもって遭遇する各種のトラブルを解決するように心がければ、人間の殻を取り除き、人間から抜け出すことができると思います。
個人の次元での悟りに過ぎず、妥当でない箇所があれば、ご指摘をお願いします。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』