文/中国の大法弟子
【明慧日本2018年12月10日】新旧宇宙の交替が目前となり、生命の根基、悟性、境界がだんだんと現れています。大法の中で修煉できるのは幸運で特殊な生命です。生死を放下し、師を助け法を実証し、自ら精進し実修する大法弟子には感服いたします。偉大な師父にお共し、法を正す時期と同時に存在しています。衆生を救い済度する中、同修がたくさんの困難を克服し、衆生を助けるために苦をこうむっていますが、魔難の現れも実に複雑です。また、病業の仮相が出た同修も多くいます。私は同修との交流を通して仮相である病業の本質についても、認識がはっきりしてきました。
年配の大法弟子は幾年の修煉を経て、無数の法の中の境界を経験してきました。師父は「魔難を前にいかに行動するかは、すべて自ら悟らなければなりません。毎回の向上とは、すなわち、自ら悟って実証した果位が昇華したということです」[1] と説かれました。「一人の大法弟子が歩んだ道はつまり、一つの光輝く歴史になりますが、この歴史は必ず自ら悟って実証し切り開くものなのです」[1] と説かれています。
私は7、8歳の頃、全人類が絶滅する程の大災難に遭う恐れがあり、必ずこの災難から逃れなければならないと認識しました。ベッドで寝ていると、思い出しては泣いていました。この様子を見るたび、母はとても心配していました。今思えば師父が当時、私のミクロな空間に一つの念「この世の危険を忘れず、危険から離れる唯一の方法は修煉しかない」ことを教えてくださったことがわかりました。大人になった1996年に大法と縁を結び、初めて人生の真諦がやっとわかりました。ここで師父の慈悲なる救い済度に心から感謝いたします。
私は修煉の過程でたくさんの残念なこともありました。今日まで歩んできましたが、でこぼこの道でした。ずっと正念を堅持している同修と比べることはできません。法を正す進展に従って大法を修煉できることが、どれほど幸運なのか、ますますわかってきました。力を尽くして精進し、師父が望むことを完成させることこそ、本当の人生の歩むべき道だと認識できるようになりました。どこまで修煉でき、法の玄妙な境界と魔難を経験するかは、必然的なことです。師父の説法「相手のことは即ちあなたのことであり、あなたのことは即ち相手のことです」[2] をだんだん理解でき、本当にできたら、旧宇宙の中の私と自我の要素もだんだん除かれると悟りました。
病業にある同修達を法理上から見れば、大多数が名利情に執着することによって、法から外れてしまったことが原因です。人類の空間場で生老病死の特性は、この次元のすべての生命をコントロールし、左右していると法から悟りました。いったんここに来たら、人間の各種の特性が自然に現れ、病業の仮相が出るのも当前のことになります。このとき、病業の同修に改めて法へ戻させることは、病業状態から抜け出すことを加持する本質な要素だと悟っています。
最近、病業の仮相が現れた一人の同修に接触しました。以前は重要な作用を発揮していた同修です。魔の巣窟を出た後、家族による情の妨害を受けました。重い病業の仮相が現れ、何年経っても乗り越えられず、現地の同修の中でも大きな影響を与えていました。この同修に接触してみると、強い恨みの心を感じました。家族のことに言及すると、異常に激高してなかなか落ち着きません。現地の同修の家に迎えられた後、毎日の学法と煉功、内を探す環境が周りにあるので、恨みの心を抑えられ、状態はだんだんよくなっていきました。ある日一緒に発正念する時、病業中の同修は、別空間にある体内の功の存在形式が見え、同時にこの空間にいる身体も軽くなったと感じました。
人と神の差はただ一念の違いだけです。どんな時でも法の中にいる状態を保てば、病業の関門を簡単に乗り越えられると思います。しかし、家族の同修に関する話が出ると、明らかに気性が激しくなります。法から見れば、気性が激しいのは常人の状態だとわかります。偉大な師父はすでに「少なくともこの問題に関しては、常人の次元に堕ちてしまったのです」[3] と説かれました。私が定の中で見えたのは、「功」が存在する空間と「病業」の空間は、完全に別になっています。「静」と「定」の状態に入ることができるなら、病業はすでに抑制され、とても深い空間に投げられ、あなたと接触しようとしても触れることができなくなります。同修の主元神が法の中にいれば、病業から離れていくということです。
同修に病業の仮相が現れた時、助けてあげようとするなら、その同修には実修の基礎が必要です。一緒にいる時、法の中にいる状態を保ち、油断しないことは病業中の同修に対してとても重要なことです。
また、病業中の同修はできるだけ心を落ち着かせて法を暗誦したり、学法した方がよいと思います。以前のことを不意に思い出したり、話したりするとあなたはまた常人の空間へ落ちてしまいます。その空間には、生老病死の特性があります。そして自分の病業を心配したり、どれほどつらいか、気持ちよくないかなどの仮相がもたらした状態を感じようとすれば、魔の罠に陥り、常人の中へ落ちてしまいます。
「功の演化する過程がきわめて複雑であるのに対して、人間の感覚はまったく頼りにならないものなので、感覚に頼って修煉するわけにはいきません」[3] と師父は説かれました。よく法を暗唱して、暗唱できるところまで暗唱した方がよいと思います。
「汝に恐れ有らば 它は直ちに抓む 念を正しくすれば 悪は直ぐに崩れる 修煉の人 法を持っており 正念を発すれば 爛鬼炸く 神世に在りて 法を実証す」[4] と師父は説かれました。
先日、一人の年配同修に病業の仮相が現れました。めまいがして、足に力を入れられず、ひどい時は動功もできない程でした。彼女と交流した際に「何も考えないように、人の念を動かさず、頭の中には法以外のものを入れず、法だけを暗誦するように」と教えました。数日後、同修に会うと精神状態がとってもよくなっていました。彼女は「ずっと法を暗唱して、思い出す度に説法を繰り返し暗唱していると、いつの間にか病業を乗り越えました」と話しました。
法を正す進展に従い、自分自身の法に対する理解が深まるにつれ、世の中の本質を洞察することができるようになり、人間の情欲、名利心がますます淡泊になり、法の境界もますます玄妙になってきました。ある日の朝、起きて座禅して静観してみると、法の強大な功の加持の元で、私の別空間の身体が洪大な法輪世界と対応していることを見ました。その境界の中で、偉大な師父の大法身は法輪世界の上空におられ、神々に囲まれて、とても荘厳で神聖に見えました。まさに「美妙なること語を窮めて尽くしても述べ難し 光彩万千双目に輝く 佛国聖地は福寿揃い 法輪世界は高処にあり」[5] でした。私の境界から見えたのは「明慧ネットはとても多彩で美しい玄妙な世界で、法輪世界から明慧ネットの空間を眺めることが可能」であることです(個人の境界で見えたものであり、一切は法を師にしてください。交流としての話だけです)。私は心の中に喜びを感じ、師父が弟子の実修と精進を励ましてくださっていることを感じました。師父に感謝いたします。
最初に文章を書き始めたとき、とても心細かったのです。「うまく書かけないことを心配することも人心ですよ。重要なのは幾年もの修煉の中、慈悲なる師父の救い済度へのご報告も必要ではないのですか」と交流してくれた同修がいました。これを聞いた後、とても啓発を受けて、当日の夜に師父が「明慧ネットは一つのとても高くて美しい空間だ」と悟らせてくださいました。明慧ネットへ投稿した過程も修煉の浄化の過程で、上に昇る過程でもあるとさらに認識できました。黙々と明慧ネットを圓融する同修達も法の強いエネルギーを持っていることを感じました。
同修の多くに自分の修煉体験を語ってほしいし、一緒に交流し、一緒に高め、円満回帰できることを望んでいます。
個人の悟りですので、法に従っていないところがあれば、慈悲なる指摘をお願いします。
合掌
注:
[1] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「道」
[2] 李洪志師父の著作:『各地説法二』「二〇〇二年ワシントンDC法会での説法」』
[3] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
[4] 李洪志師父の詩:『洪吟二』『恐れ無し』
[5] 李洪志師父の詩:『洪吟』『法輪世界』