人間の観念は法を実証する時の妨害となる
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2018年11月21日】私の経験した2回の出来事からお話しましょう。一回目の出来事は1999年7.20に中国共産党が法輪功への迫害を開始しました。その翌朝、私は普段通り広場に行って煉功しました。なぜかその日にやって来た人が大勢で、煉功が終わった後でも人がどんどん集まって来て、列を作りました。後ろからも大勢の人が来ましたので、私は一番前列に立つことになってしまいました。しばらくするとそこへパトカーが来て、中からたくさんの警官が次々と降りて来て、数十人の警官と対面した状態で警官が私の前にずらりと並びました。

 その後、すぐ警官らは1台1台用意した大型バスの中に人々を強引に入れようとし、我々と揉めました。当時2人の警官が両側で私の両腕を掴んで、バスの方向に引っ張りました。その時、私はまるで綿の上を歩くような感じになり、心の中で「家に帰る!」と叫びました。この4文字には二つの意味が含まれています。一つは師父に従って真の自分の元に戻るということで、もう一つは自宅に帰ることです。力いっぱい引っ張られ辛かったので、本能的に右腕を振り払おうとしたら、右側の警官が4、5歩も先へ飛ばされ、当時、私もちょっとびっくりしました。続けて左腕を振り払ったら、左側の警官もまったく同じように遠くまで飛ばされ、さらに驚きました。飛ばされた2人の警官は戻って来て、再び私の両腕を強く掴み、またもう1人の警官が加わり、背中を押しながら3人がかりでバスに乗せようとしました。私は足をバスの踏み台に片足のせて踏ん張り抵抗しましたので、車内からもう1人の警官が私を引っ張り上げ、後ろから4、5人の警官が必死に私を押し上げ、そのまましばらく膠着状態が続きました。私が後ろを振り向くと、さらに多くの警官がこちらへ集まって来ました。自分一人の力でこのまま大丈夫かという動揺が生じ、抵抗することをやめてバスに乗りました。後ろから1人の警官がついてバスに乗り、運転席の横のエンジンの蓋の上に座り、汗を拭きながら私を指差して、息を切らして「お前、お前…」と最後まで何も話せずに、息をハーハー吐くだけでした。不思議なほど警官らは大汗をかき、息苦しい様子で疲れているように見えました。

 たくさんの法輪功学習者を乗せたバスは、郊外のどこかで私たちを降ろして走り去りました。後で分かりましたが、当時、留置所や臨時拘置場、それにいくつもの学校の校舎内にまで拘束された学習者でいっぱいになりました。私たちは収容する場所がないため、郊外に降ろされたのです。それから1カ月ぐらいすると、偶然に鏡で肩の上に黒いあざのある人を見つけました。よく見ると対称的に指の痕(あと)が残されていました。私たちに対する迫害は本気だったことが判明しました。当時、警官らがなぜそれほどまでに我々を必死で収容したため、疲れている様子が分かりました。

 それともう一つの別の経験ですが、警官らに連行されたことがありました。当時、私は「迫害するな!」と叫びながら手を振り払ったら、両側で私を掴んでいた2、30代の2人の警官が遠くまで飛ばされました。その中の1人は倒れ、もう1人も転びそうになりましたが走って来て、中から2人の警官が手錠を持って降りて来ました。このあと、もっと警官が来るのではないかと思い、私は抵抗せずに手錠をかけられても、おとなしくしていました。

 派出所に着いたら、私はおとなしく尋問室の鉄の椅子に座りました。椅子には移動式の小さな鉄のテーブルがあり、それで私の腰を椅子に固定し、両手を鉄のテーブルに溶接された指ぐらいの太さの鉄の棒にかけられ、食事もさせず十数時間そのまま座らされ、警官が3人ずつ交替で私を監視しました。70歳も過ぎて瘦せて弱弱しい私をここまで警戒することに理解できませんでした。しかしそれは、私が椅子を蹴って立ち上がるのを防ぐためだと後になって分かりました。

 この2回の経験から、当時、自分の力で大勢の警官に対抗し切れないし、仕方がないと思い込み、迫害されることに従順していたことに気づきました。もし私が妥協せず、迫害に抵抗していたとすれば、結果がどうなったかを考える勇気がありませんでした。小さい時から唯々諾々(いいだくだく・ 何事にもはいはいと従う)な性格で、人にいじめられてきた私は、邪悪な迫害の前でも抵抗しなかったので、このような結果につながったと思います。これも一つの人心なので、つまり意気地のない心を修めるべきだと思いました。同修の文章「連行された時の表れをいかに認識するか」を読んで、私は今の境地で分かったことがあります。

 師父の『道法』に次のように書かれています。「長きにわたって大法の中にいる衆生、特に弟子には、心性を向上させることにおいてずっと法に対して異なる次元での誤解があります。魔難がやってくるとき、本性の一面から認識することができず、完全に人間の一面から理解しているため、魔はこれを利用して尽きることのない妨害と破壊を行ない、学習者は長期にわたり魔難に陥っています。本当のところ、これは人間の一面の法に対する認識不足から起こったことで、人為的に皆さんの神の一面を抑制し、つまり皆さんが修めてできあがったその部分を抑制し、法を正すのを阻んでいるのです。修めてまだできあがっていない一面が、どうして主思想を抑制し、すでに法を得た一面を抑制することができるものでしょうか? 人為的に魔を助長し、それが法の隙につけ入っているのです。弟子として、魔難がやってくるときに、本当に平然として動ぜず、または異なる次元のあなたに対する異なった要求に符合するよう心を放下することができれば、充分に関を乗り越えます。それでも魔難が尽きることなく長引くのであれば、もし、心性または行動にその他の問題がないのであれば、きっと邪悪な魔が皆さんの放任している隙につけ入っているに違いありません。修煉者は、なんといっても常人ではないのですが、ならば、本性の一面は、なぜ法を正さないのでしょうか?」[1]、「皆さんは、『自然』というものは存在せず、『必然』には原因がある、ということをはっきり認識しなければいけません。実際のところ、『自然』とは宇宙について、生命について、物質の現象について、常人が解釈できないために無責任に自説を正当化するためのもので、彼らも『自然』そのものが何であるかが分からないのです。こうした意識の影響によって、すべての魔難が必然的で、このようなものだと皆さんが思ってしまったために、いかんともし難い消極的な状態が生じています。ですから、皆さんの人間としての一面は、はっきりと分かっていなければならないのです。さらに重要なことは、法を得たその一面は、はっきりと分かっていなければならない、ということです」[1]

 私は事件の中で、自分が「本性」の一面で正法するのではなく、人間の思維を用いたため、仕方がないという消極的な観念が生じてしまい、迫害を加える邪悪に左右されていたことが分かりました。

 実は修煉する私たちには神の一面があるのです。師父は「神世に在りて、法を実証し」[2] とおっしゃいました。師父は前から我々を神と見なされていましたが、それに対して我々自身がまだ人間だとみています。私は師父のおっしゃった「佛の能力」の意味を一層理解できるようになり、「法を実証する」中に「佛の能力」を実証する意味も含まれていると分かりました。師父が弟子たちに「佛の能力」を与えておられなかったなら、なぜ私のような年寄りの女性が警官を飛ばす力があったのでしょうか? また、なぜ寒がり屋の私が薄着で冷たい鉄の椅子に十数時間も座らされても崩れず、耐えられたのでしょうか? 当時、広場で追い払われたときに、ある70歳ぐらいの女性が座禅し続けました。数人の警官らが一斉に引っ張りましたがびくっともしない彼女を、結局のところ警官らはどうすることも出来ず、打ち捨てざるを得ませんでした。

 このような奇跡的なことを目にしてから、師父はすでに我々に功能を与えてくださったことを実証できるのではないでしょうか。すでに我々をこの位置まで押し上げてくださったのではないでしょうか。なぜ、我々はそれらを試す勇気がないのでしょうか。

 師父は次のように説法しました。「ここ数年来、私はいつも大法弟子に非常に大きな能力があると言っていますが、どうしても信じない人がいます。なぜならば、あなたに見えないようにしているからです。あなたの正念の作用で、周りのすべてとあなた自身まで変化が起こりますが、あなたは試してみようと思ってもいません。旧勢力とそれらの邪悪な要素による妨害はつまり、皆さんの考えにある隙に乗じており、ここ数年来ずっとこのことをやっており、旧勢力が操っている卑しい鬼と邪党の要素はずっとこのようにやっています。皆さんの人を救うことができないようにし、なぜなら、直接対決をすると、あなたに勝てないからです。あなたが正念を発すると、邪悪が千軍万馬であっても、全部土となり、すべて消滅され、何者でもありません。このように続くと、卑しい鬼と邪党の要素の妨害は消滅され、大法弟子は念を集中させ、十分な正念で正念を発することができます。皆さん試してみてください。今日それができれば、現在の邪悪の半分がなくなります。様々な人心があり、協調が取れないため、邪悪は皆さんのこの隙に乗じており、皆さんのやるべきことを失敗させ、衆生を救い済度する中であなたの力を弱めています。邪悪は今、ほかの方法がありません。この世で現れたそれらの悪人は非常に悪いのですが、その人がそれほど凶暴なのは、背後で邪悪が支えているからです。その邪悪を消滅してしまえば、その人も凶暴でなくなります。もし大法弟子が皆力を合わせ、強い正念で行うことができれば、皆さん考えてみてください。それこそ神がこの世にいることの現れであり、邪悪にとってあまりにも恐ろしいことです」[3]

 師父はまた、「修煉は佛の能力と切っても切れない関係にあります。ですから私はこのようなことを説いた時、ただ道理から、法理から概括的に説いているだけであり、あなたに分からせ、例をあげて説明することによって修煉者がそれ以上のことを理解できるようにするためです。これらのことを求めてはいけないと言いながらも、修煉の次元や神通を説いたのだということではありません。これらのことは佛法修煉と切っても切れない関係にあります。皆さんの求めていることと、知っておくべき法理とは完全に違います。それは佛法のほかの面での現れです。佛法神通の殊勝さが見えなかったのは、あなたが常人の観念を抱きながら本を読んでいるからです」[4] と説かれています。

 師父は説法の中で「今日は復活祭であり、神が復活する日です!(熱烈な拍手)多くお話しませんが、今日という良い日に大法弟子の神の一面を復活させましょう!」[5] とおっしゃいました。師父はすでに我々の鎖(くさり)を開けてくださいました。それなのになぜ我々は、人間の観念でこの鎖を自らかけるのでしょうか? 法に則っていれば、我々は十分に神通力を発揮することができるはずです! 師父は神通力について多くのことを教えてくださいましたが、我々の人間の観念が多すぎて、「本性」の一面を生かして法を正すことができなかったと思います。同修の皆さん、師父の法を正すプロセスに従って、「神世に在りて、法を実証し」を思い出し、大いなる「佛の能力」を発揮し、法を実証しましょう!

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「道法」
 [2] 李洪志師父の詩:『洪吟二』「恐れ無し」
 [3] 李洪志師父の経文:『二十年説法
 [4] 李洪志師父の経文:『スイス法会での説法』
 [5] 李洪志師父の著作:『各地での説法六』「二〇〇四年復活祭ニューヨーク法会での説法」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2018/11/2/376330.html)
 
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