正しい法理から執着を取り除き 大法に同化する
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本201811月29日】私は自分の経験から、正しい法理に従って修煉すべきだと分かりました。  

 一、目先の利益をむさぼる心を取り除く

 同修たちと交流する時、皆同じような問題が存在していると気づきました。つまり大きな利益には平然として放下することができますが、細かい利益にはむさぼる気持ちがあるのです。私自身も買い物の時、お得なものやおまけしてくれたりすれば、口ではそうしなくてもいいと言ってはいるものの、心の中では喜んでいます。どうしてこんな心がいつも取り除かれないのか、と悩めば悩むほどそのようなことに出遇います。

 ある日また悩んでいる時、突然、頭の中で「もし、あなたは人から何かを得ることよりも、人に何かを得させる場合であっても心から喜べば、このむさぼる心が取り除かれるはず」という一念が現れました。

 このように思った瞬間に分かってきました。なるほど、目先の利益をむさぼる心がずっと捨てられなかったのは、「自己のため」という常人の理にいるからです。この心を根本的に是正することができれば、「むさぼる心」はただのほこりに過ぎず、一瞬で吹き飛ばされてしまいます。それ以降、私はもう誰よりもたくさん得をしようと思わなくなりました。

 二、「私は必ずできます!」

 ある日同修Aさんと交流する時、手続きのために政府機関に行くAさんに「向こうでその人たちに迫害の真相を伝えればいいのに」と言うと、Aさんは自分の心性がまだそれほど高くないので出来ないと答えました。それに対して私は「あなたは出来ますよ。心から自分にも出来ると思えばいいのです。それでも出来ないと感じるなら、出来なくさせている執着の心は何であるかを見つけ出して、取り除けばいいのです」とアドバイスしました。

 この言葉が口から出た途端に、私自身もびっくりしました。これは私が話せるものではなく、師父が私の口を利用して私と同修Aさんに自分たちの根本的な問題、つまり大法弟子として正しい法理で物事を認識させるためだと思いました。本来ならば「私は何事も正念を持って、法理に基づいて正しく行う大法弟子なので、私には必ずできます!」と、こうあるべきです。これに対して、私はいつもまず先に「出来ない」と自分を否定してしまい、このようにすると良くない執着心や恐怖心などが、いかにしたら捨てられますか? いつ正しく出来るようになりますか?

三、嫉妬の心、怨む心、報復の心を取り除く

 「嫉妬の心、怨む心、報復の心」、これらの心がなかなか修められないために悩んでいる同修がいるそうですが、私も同じでした。時には座禅をしているにも関わらず、頭の中からいろんな考えが浮かび上がります。例えば、誰々さんには大きな問題があり、このままなら大変なことになるとか、ひいては本当にひどい目に遭って思い知らせ、それで自分の気持ちも晴れるとすら思っていました。

 このような考えが間違っていると分かっていても、抑え切れず、繰り返して浮かび上がり、その考えのままさらに続きます。ふとこれはいけないことだと気づき、悔しく思いますが、しばらくするとまた再び出てきます。このように、私は嫉妬や怨みの悪い念から抜け出せないまま悪い循環に陥り、とても苦しくてたまりませんでした。

ある日、突然このように思いつきました。正法時期に師父に従って正法する大法弟子は、どれほど素晴らしいものであるか! 問題があると思った同修に対しても、「善意」を持って誠心誠意にこう言うべきです。「あなたはこのことでわずかな漏れがあるから、早く見つけ出してそれを取り除いてください。私は発正念をしてあなたを正念で支えます」。このように思った瞬間に、全身穏やかで温かいものに包まれたように感じました。これは正しい法理の純粋で善念の力だと思いました。

これ以来、私は心の中で良くない考えが浮かび上がるたびに、正しい法理は何かと考えます。このようにして比べると、自分の以前の考えがあまりにも悪くて汚いと気づきました。その悪念を働かすどころか、思い出すだけでも汚いと思い、以前はどうしてそのような考えであったのか、どうしてそれほど悪かったのかと反省するようになりました。これで私は嫉妬の心、怨む心、報復の心を取り除くことができました。

四、利己的な心を取り除く

以前の私は何かをしたら、いつもそのことから自分を高めようと思いましたが、私の向上のために同修はなになにをしてほしいという潜在意識がありました。正しい法理では、同修を高めさせるために私は力を尽くすべきだと分かりました。心が是正され、どんな事でも人のために考えるようになり、自分が不思議なほど速く向上していくと感じました。

五、交流文章を書く

以前、私は自分の書いた交流文章が明慧ネットに掲載されてほしい気持ちが強かったのです。自分が大法を実証することに「大きな役目を果たした」、世界中の大法弟子が見てくれているから自分の威徳も大きく、もっと速くもっと向上できるという潜在意識がありました。発表されなかったら落胆してしまい、続けて掲載されなかったら、意味がないからやめようとまで思いました。

現在、私は正しい法理の基点に立ち、この問題について新たに認識しました。自分が経験した魔難の中で悟ったことを同修たちと共有させるために、師父が私にたくさんの法理を悟らせてくださり、同修のために体験文を書き上げさせ、同時にこの私をも向上さるためだとわかりました。今の私は掲載されなくても落ち込むことはありません。明慧ネットに選択される修煉の範囲を、少しでも高め広めるために書き続けています。全体的な向上になる最もふさわしい文章が選ばれると信じています。自分の文章ではなく、より優れた他の同修の文章が選ばれても、今では嬉しく思えるようになりました。

師父はこのようにおっしゃいました。「大法弟子は常人の世間での修煉の中、法理に対するはっきりとした認識を持っています。つまり、常人の得失に執着しないことです。法を実証することにおいて、どうしても自分の意見を出さなければならず、私がどうしてもこうしたいああしたいと思い、それで始めて宇宙で威徳を樹立することができる、というようなことではありません。あなたに良い方法があり、それを考え出したので、あなたは法に対して確かに責任を持っています。しかし、あなたの意見、方法が採用されるかどうかは重要ではありません。他の人の方法を用いても同じ効果に達し、自分の方法に執着せず、かえって他の人の方法に同意し、あなたは自分の方法を言っても言わなくても、神にはそれが見えるのです。『ほら、彼には執着の心がなく、こんなに度量があって寛容なのです』という具合です。神は何を見るのでしょうか? まさにこれではありませんか?」[1]

さらに師父は「神はあなたの方法が役立ったのを見て次元を上げるのではなく、あなたがこの問題に対する認識を高めたのを見て次元を上げるのです。これが即ち正法の理です。私にこれほどの功労があるから、あれこれができる、ということは常人にとって確かにそうなのかもしれません。しかも、宇宙の法理のある特徴、ある特殊な環境の中でこういうこともあるかもしれません。しかし、真の向上は放棄することであって、得ることではありません」[1]とも教えられました。

最近になってようやく師父のこの説法について、ある程度の理解ができるようになり、「これが即ち正法の理です」という師父のお話が分かるようになりました。私は明慧ネットで、自分の体験談を発表させたいという強い願望を放下できるようになり、自分の発表したものが同修たちの力になったかどうか、などにも執着しなくなりました。

「私(し)」がないからこそ威徳が大きく、「」を放下するからこそ、偉大な法が私たちの身に現れてくることを実感し、教えてもらいました。

 六、衆生を救い済度する

今まで私は師父の要求に従って三つのことを行うべきだと思い、そうではないと基準に達することができないと思い、毎日出かけて真相を伝え、人を救うことに励みました。数々の難関を乗り越える原動力は私自身の円満成就のためではないのですが、自分の宇宙体系の衆生を救い済度するために力を尽くしました。この点では自分が人のために無私無我であり、大法弟子として自分の宇宙体系に使命感を持ち、最も神聖なることをしていると信じてきました。しかし今になって考えてみると、それはまた一種の「私」のためで、ただ範囲が大きくなった「私」に過ぎないことだったと分かりました。

 私は相手の体系が救われるためにその人に真相を伝えるのではなく、これまでは自分の体系を救うためにやっていたので、とても疲れ苦しく感じるとともに、プレッシャーもかなり大きく感じられました。

 このことに気づき直ちに自分の心を是正した私は、心から相手に真相を知ってほしい、本当に相手の代表している宇宙体系が救われるための気持ちに変わりました。このようにすると、苦しみも疲れも感じなくなりました。自分のためではなく、人のために何かをする、これこそが「正法の理」だと分かりました。今の私は真相を伝える時、前のような「あなたに教えてあげる」という気持ちではなく、「どうしたら相手によりよく真相を理解させ、伝えられるか」を考えながら話していますので、相手もよく聞いてくれるようになりました。

 結語

 師父はこのように弟子に教えられました。「高い次元の天体内における大覚者の世界と生命は、正しい法理の中から生み出されたものであるか、あるいは正しい法理の中で修煉して圓満成就したものです。彼の一切がみな、正念の理と符合しているのです」[2]

 今になって、私は心から「正しい法理に従って修煉すれば向上が速く、素晴らしいものだ」と言いたいのです。

 師父は私たちに「常人という次元、立場、思想境地からでは、本当のことを理解できるはずがありません」[3] と教えられました。常人の中で生じた良くない執着や観念を取り除くには、常人の認識から抜け出て、正しい法理の下でそれらを取り除きます。

 現在、私は念が動くと「正しい法理は何か?」と自分に問いかけます。するとすぐに良くない心や考えが見つかり、それを捨てることができます。正しい法理に従って修煉すればするほど、修煉はたやすくなり、常人の心や考え方を変えることもより簡単になり、絶えず宇宙の特性に同化していると感じられます。

 師父は「一人の修煉者として、あなたがこの特性に同化すれば、得道した者となるのです。理はこんなにも簡単です」[3] とおっしゃっている通り、私も自分がより純正になり、より慈悲心を持つようになってきているのを実感しています。

 現段階での認識にすぎませんので、間違ったところがあれば指摘してください。

 注:
 [1] 李洪志师父著作:『各地での説法二』「二〇〇二年米国フィラデルフィア法会での説法」
 [2] 李洪志师父著作:『精進要旨二』「大法とは圓容しているものである」
 [3] 李洪志师父著作:『轉法輪

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2018/11/11/376981.html)
 
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