「大法」の名義を軽率に使わないように
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2018年11月18日】最近、一つの問題を思い出しました。私は同修が「私は大法の歌をいつも歌っている」と言っているのをよく聞きます。しかし、同修が実際に歌っているのは、大法弟子が作った歌です。私は、師父が作詞された歌曲だけが「大法歌曲」と言えると思っています。大法弟子が作った歌曲は「天音」、「天音歌曲」とか「天音音楽」などと言っていますが、真の「大法歌曲」とは言えません。一部の同修のパソコンやUSBの中に「大法歌曲」というフォルダがありますが、これらの中身の多くは大法弟子が作った歌です。

 また「大法媒体」とか「大法会社」、「大法映画」、「大法TV」、「大法洋服」などの呼び方もふさわしくありません。大法弟子は法を弘めることと真相を伝えるために、常人社会の一部の形式を利用していますが、それらは皆大法そのものではありません。

 師父は「マスコミの場合、本来常人社会に立脚する会社なのです。皆さんが運営しているマスコミは大法が運営しているマスコミではありません。これは私が以前から皆さんに話したことであり、大法弟子が運営しているマスコミであり、常人社会に立脚しているのです。大法にマスコミがなく、修煉しかないのです」[1]と説かれています。

 師父はまた「私たちのメディアを特殊な、常人と違うメディアとして見ないでください。会社は会社です。大法に会社やメディアはありません。それは修煉ではなく、大法の一部ではありません」[2]とも説かれています。

 私たちは大法の純粋さを保たなければならず、「大法」の名義を軽率に使わないように気をつけなければなりません。

 不足なところがあれば善意なご指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『各地での説法』「二〇一〇年ニューヨーク法会での説法」
 [2] 李洪志師父の経文:『世界法輪大法デーの説法』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2018/11/7/376795.html)
 
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