修煉における意志力の強さについての心得
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2018年10月16日】学法グループで同修たちは意志力に関して、何度も議論しました。師父は何回も「初心を忘れずに修煉する」[1]と教えてくださいましたが、なかなか精進できないのはなぜでしょうか。学法する時、眠くて何回も本を落とす同修がいますが、本人が精進したくないわけではなく、修煉して眠くなることは妨害であり、これを克服する意志の力が強くないためだと思います。

 師父は次のようにおっしゃいました。「法を勉強する時に寝てしまう、本を読む時に寝てしまう、煉功する時も寝てしまう、この最も初期的なものも乗り越えることができません。それは意志なのです! 」

 ご存知のように、修煉の中で人間を構成しているあらゆる要素もあなたが人間から脱皮することを阻んでいるだけではなく、人間のあらゆる環境を構成しているものまで、あなたが離れていかないように阻んでいます。どんなものをも突破しなければならず、どんな魔難をも乗り越えていかなければなりません。その最大の現れはそれらのものがあなたに苦痛を与えることです。しかし、苦痛には異なる形式があり、眠気もその一つです。修煉できなくなり、精進できなくなった人はそれが苦だとはわからないのです。あなたは法を得ることができず、それらのものはあなたに法を学ばせないようにしているのに、それが魔難とは感じていません。心が法の下に置かれておらず、修めたくなければ話は別です。どうして眠気を抑えないのでしょうか? 意志をもっと強めましょう。「人間は自分が寝てしまわないように自制することで、成佛することができれば、私に言わせれば、それはあまりに易しすぎるのです。この小さな関も乗り越えることができなければ、どうやって修めるのでしょうか? 」[2] と師父は説かれています。

 眠くなる妨害について、私は自分の体験からどのようにしてそれを克服し、意志力を強める事が出来るかを皆さんと一緒に交流したいと思います。法に合わないところがあれば、ご指摘をお願いします。 

 一、意志力は修煉の各方面に現れる

 師父は次のように説かれました。「わたしがむかし修煉していた時、多くの高人がこんなことを言ってくれました。『忍び難がたきは忍びうる。行ない難きも行ないうる』。 実際その通りです。皆さんは帰ってからぜひ試しにやってみてください。本当の劫難に直面した時、あるいは関門を乗り越える時に、試してみてください。耐え難いものを耐えてみてください。乗り越えられそうもないと見えても、行ない難いと言われても、本当にできるかどうか試しにやってみてください。もし本当にやり遂げられれば、きっと「柳暗リュウアン 花明ファミン 又ユウ 一村イーチュウン」というように、眼前に新たな世界が開けることに気づくに違いありません!」[3]   

 私は23年間の修煉の過程で、師父のこのお話を2000回余り読んだことがありますが(週に2回のペース)、今になってようやくこの言葉の重要さを深く認識するようになりました。忍耐すること、苦しみを嘗めること、業を返すこと、法を悟ることにより、最後に向上することができます。座禅の中で苦しみを嘗め、トラブルの中で忍び、確実に修煉し、妨害される中で信念を固め、病気の仮相の中で業を返すことで昇華します。また各種の利益の前で常に修煉者として自分を律し、情欲の前で心性を守り、トラブルの前で自分の問題を探して自身を修めることは、「殴られても殴り返さず、罵られてもやり返さない」[4] を実修することなのです。すべての方面から意志力の問題が問われてきます。つまり、修煉者として師を信じ、法を信じることは根本的なことで、苦しい環境の中でも、未来が見えない中でも強い意志を持って、「柳暗リュウアン 花明ファミン」[3] になるまで頑張って続けるべきです。そこまで修めることができるかどうかが問題です。

 二、いかに強い意志力を修めるか

 私たちが精進しない時や難関を乗り越えられない時、あるいは大法弟子のやるべき三つのことをきちんと行っていない時は、往々にして強い意志力が欠けているためだと思いますが、大法弟子の意志を打ち壊すことも邪悪の目的です。それでは、いかに自分の意志を強めますか? 第一に、心の中に法があることが強い意志力の源だと思います。心の中に法がなければ支える力がなく、意志も弱まり、次第に人間の念が生じてしまい、執着心を捨てることもできず、難関も乗り越えられなくなります。例えば座禅について、法理上では座禅によって業を滅し、身体を転化させること、足が痛いことはいいことであり、その痛みこそが自分の宇宙天体が更新されている現れかもしれません。煉功することは肉体を変化させるだけではなく、同時に自分が代表している宇宙体系内の衆生を法の加持により浄化させ、更新させる過程だと思います。法を理性的に認識することこそが意志力を強めることができ、師父がおっしゃられている「忍び難がたきは忍びうる」[3] ができるのだと思います。

 学法する時に眠くなることで、私はとても辛かったのです。眠くてたまらない時は『轉法輪』を立って読んだり、跪いて読んだり、歩きながら読んだりしました。また法を聞くとか、書くとかして学法をあきらめずに、師父の按排された道を歩み続けました。また一部の同修が発正念の時、立掌が崩れたり、手の形が変形したりします。「常人のことではぜんぜん眠くないのに、学法しようとすれば10分も経たないうちに眠ってしまう」と言う同修もいます。これは他空間による邪悪な妨害だと知りながらも、長期に渡り強い意志の力によって、積極的に改善してこなかったことが原因です。この難関を突破するにはたくさん学法しなければなりません。

 三、意志力の源は強い信念である

 師父はこのようにおっしゃいました「功を修めるに路有りて、心を径と為す。大法は無辺で、苦を舟と做す」[5]  修煉の中でわたしたちは皆、師を信じ、法を信じると言っていますが、本当に言ったとおりにできるかどうかがとても難しいのです。

 私がいる地域に何人かの同修が同じ時期に病業の難関に遭いましたが、師父と法を信じる程度によって、乗り越える効果も違ってきます。「人間なのか、神なのか、一念の違いです」[6] 、本当にその通りです。修煉に精進する70代の甲さんは、浴室で滑って転んでしまい、立つことができなくなり、目も開けられなくなりました。しかし、彼女の一念は「大法弟子は法を実証するために来ている、修煉の過程で漏れがあるとしても、旧勢力による妨害は認めない」でした。甲さんの夫は彼女をベッドに抱えて寝かせ、全身が動けなくなったため、家族はとても心配して強引に病院へ搬送しました。しかし、甲さんは落ち着いて、家族に「私を病院に入れることは、私にとっては害があるだけです。病院で修煉者の病気を治せますか? 病院へ行くことは死への道でしかありません。家にいれば私は法を聞くこともでき、修煉者として今回の難儀で業を滅し、難関を乗り越えることができ、師父の法身が私を守ってくださり、何も起こりません」と家族を説得しました。すると、これらを聞き入れた家族は甲さんの言う通りにし、仕方なく諦めました。彼女は強い意志と大法に対する信念で旧勢力の妨害を認めず、1週間も経たないうちに完全に回復し、また三つのことも出来るようになりました。もし当時、甲さんが人間の念が生じて不安になり、家族の言った通りに病院へ行っていたら、厄介なことになったに違いありません。常人の方法で修煉者の問題を解決しようとすれば、結果は自ずと常人の状態になるだけです。

 「その一念の違いによって異なる結果がもたらされることがある」[3]   自分に害を与えるだけではなく、大法にもマイナスの影響をもたらしかねません。ですから修煉の中でどんな魔難に遭遇しても、どんな複雑な状況に直面しても、「法は一切の執着を打破することができ、一切の邪悪を打破することができ、一切の虚言を排除することができ、法は正念を固めることができるのです」[7]  をしっかりと覚えるべきです。私たちの心の中に法さえあれば、乗り越えられない難関などありません。なぜならば、旧勢力の目的はわれわれを大法から離脱させることです。それに対して、師父の目的はわれわれをこの大法に同化させることです。真に大法に溶け込むことができれば、いかなる執着心をも取り去り、どんなでも乗り越え、どんな業を滅するときの苦しみをも耐え抜き、それに意志力の弱さにしても、最終的には師を信じ、法を信じることで突破できるのです!!

 注:
 [1] 李洪志師父の著作 : 『各地での説法九』「二〇〇九年大ニューヨーク国際法会での説法」
 [2] 李洪志師父の経文 : 『長春輔導員法会での説法』
 [3] 李洪志師父の著作 : 『轉法輪』
 [4] 李洪志師父の経文 : 『シドニー法会での説法』
 [5] 李洪志師父の詩 : 『洪吟』「法輪大法
 [6] 李洪志師父の著作 : 『各地での説法十一』「2010年ニューヨーク法会での説法」
 [7] 李洪志師父の著作 : 『精進要旨二』「妨害を排除せよう」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2018/10/1/375156.html)
 
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