迷いの中から はっきりと目覚める
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文/米国の大法弟子

 【明慧日本2018年8月1日】何日か前に、ある夢を見ました。夢の中で、僕は「フランス(中国語では「法国」と書く)」に辿り着いたのです。「フランス(法国)」までの間、ずっと寝ていて、皆が僕を連れてここまでやっと辿り着いたと、同修が教えてくれました。目が覚め、この夢を振り返って考えてみました。これまでの修煉はずっとぼんやりしていて、最近になって漸く頭がはっきりしてきたことに気づきました。夢の中の「フランス(法国)」は「法」が作り上げた「国」であると言うことです。

 ここ2年の間で、座禅をする時によく眠ってしまう関を乗り越えてきました。それまでは座禅をする度によく眠ってしまいました。2年ほど前に師父のお導きにより、ある同修の手助けの下で、このままではいけないことに気づき、時間がかかりましたが突破することができました。

 座禅をする度に眠ってしまう状態は、中国にいる頃から続いていました。あの頃は、昼間は常人の仕事をし、帰宅後「三つのこと」を行わなければなりませんでした。時間がないため、睡眠時間を減らしていました。それにより、朝起きて煉功をすると眠くなり、時間が経つにつれて、座禅をしたまま寝ることが習慣になっていきました。良くないと分かってはいたものの、改める決心が中々つきませんでした。

 海外に来てからも、大法のメディアのある項目に参加している時、修煉よりもこの項目の仕事をすることをより気にかけて、自分も良くできていると自慢に思っていました。しかし、ある日突然、まさに師父が説かれたように、「まわりの人に親切にしてもらえなくなったし、上司から嫌われるようになったし、家族との関係も悪化してしまった。どうして突然こんなに多くの面倒なことが出てくるのだろうか?」[1]という状態に陥ってしまったのです。同僚だけでなく、上司にまで怒られ、そして、ある同修に皆の前でこっ酷く叱られました。その瞬間、自分の人格まで侮辱された気がしました。普段仲が良かった同修にも悪口を言われ、妻にも文句を言われました。その時、これほどの苦労までして、一体何になるというのか。いっそのことやめようと思いました。あの頃感じたプレッシャーは、迫害の初期において、邪悪がのしかかってきた圧力よりも激しいものでした。迫害の初期、あれほど厳しかった環境の中でも、今みたいに隠れてこっそりと涙を流したことはなかったし、諦めようと思ったこともありませんでした。当時は、退職する念まで何度か湧き起こるほど辛いものでした。

 その難関は当時の僕にとって非常に大きいものでした。このまま突っ走るのか? それとも諦めるのか? このまま突っ走れば雲は晴れ、関を乗り越えられるだろう。しかし、諦めればそれは師父の要求に逆らうことになる。それでは覚悟を決めて、前へ突っ走るしか道はないと思いました。

 それならば、基本の基本から師を信じ、法を信じることから始めよう。師を信じ、法を信じるには、まず師父の言うことに100パーセント従わなければなりません。日常生活や仕事において、人の話を聞かないといつもこっ酷く叱られます。師父はまさにこの方法を通じて、僕に悟らせておられるのです。座禅をする時や発正念をする時、はっきりと意識を保つことは大法弟子として当たり前のことです。師を信じ、法を信じると自信満々に言っている者が、基本のことすらできないようでは、本当の「信じる」ではありません。それならば、普段の日常生活においても、主意識をはっきりと保ち、妨害を排除し、仕事も真剣に行い、発正念や煉功も意識をしっかりと保たなければなりません。座禅する時、眠くなれば目を開けて座禅すれば良いのです。それでも眠いのならば、いっそのこと眠ってしまった方が、ごまかすよりずっと良いと思いました。

 実は、師父の言われることに従えない時は、やはり、自我が強いことが原因なのです。自分では師父の要求に従っていると思っていても、実際のところ、師父の要求からはとてもかけ離れているのです。煉功はしているし、「三つのこと」も行っているから、自分はしっかり修煉していると自己満足していますが、さらに深く掘り下げてみれば、座禅する時に眠ってしまう原因は二つありました。一つ目は意識がどこかへ行ってしまっていることと、二つ目は安逸なのです。座禅する時、あれこれと様々なことを考えてしまい、頭の中は常人のことばかりでいっぱいで、主元神が幻に捕らわれて、身体が何かに操られているのです。ぼんやりしていると、身体もフワフワしてとても気持ちが良く、頭がはっきりすることがより困難になっていきます。時々、同修が注意してくれますが、時間が経つとまたすぐにぼんやりしてしまい、根本的には全く変わっていません。

 座禅する時、仕事や身の回りの些細な事が次から次へと浮かんできて、執着して仕方がありません。なぜなら、それらはすべて自分に関することだからです。

 また、同修への文句や不満も浮かび上がってきます。あれもダメ、これもダメで、他人のことばかり気にしています。しかし、いざ、相手に問題点を教えてあげても、その同修は全く聞く耳を持ちません。これはもう内に向けて探して自分を修めるしかないと、この時になってようやく悟りました。

 このことを悟るまで、あることが起こりました。ある日、同修の文句や愚痴をこぼしながら車を運転していました。すると、ふとパトカーが背後を走っていることに気づきました。これは偶然ではないとすぐに察した僕は、直ちに愚痴をやめました。しばらくして、パトカーはどこかへ行きました。しかし、少し経つと再び文句や不満が湧き起こってきて、これでまた突然、パトカーが後をついて来たのです。これではいけないと悟った僕は、慌てて師父に謝り、不満も、文句も、愚痴も頭の中から追い払いました。

 「修煉者にとって内に向けて探すことは最も有効な方法です」[2]と師父は説かれました。このような方法があるのに、いざ、人心に触れるトラブルが起こった時、頭の中が常人の理ばかりで、内に向けて探そうとせず、常人と全く変わりありません。表面上では性格は良いけれども、実際は自分を修煉していないと同修に言われました。本当に内に向けて探す時、様々な問題が見つかりました。これまでは、他人のことばかり気にして、自らを修めることをしていなかったのです。ただ自分を修めていくだけで、他の事など何も心配しなくても、師父がおられるから大丈夫だと思うと、少しずつ理性を取り戻すことができました。

 座禅する時、眠ってしまうもう一つの原因は安逸です。安逸を求める心理は以前から、様々な方面に現れていました。例えば、週末になると、必ず寝坊します。平日は仕事等で忙しく、精神も緊張して常に張りつめているため、週末になると、リラックスしたがるのです。しかし、リラックスしすぎた結果、頭が重く、ボーとしたまま、学法も煉功も平日よりも集中できません。修煉者にとって、苦を嘗めることは良いことなので、リラックスすることは悪いことになりますので、安逸を求めてはいけません。普段通りの生活状態を保ち、残った時間を「三つのこと」に振り分けるだけで十分です。実は、安逸心と色欲心は深い関わりを持っています。安逸心が現れた時、良く色欲に関する難関を夢に見て、中々乗り越えることができませんが、精進している時は、容易に乗り越えることができました。

 あれから2年が経ちました。座禅の面において大きく改善され、意識がだんだんとはっきりしてきています。ある日、座禅の後、大法に関するチラシに写っている女性同修の座禅の姿が、ふと目に入りました。彼女の姿は非常に穏やかで、平和でした。もし、常人が大法弟子たちが煉功しているこのような姿を見れば、きっと煉功の素晴らしさを実感できるだろうと思いました。このように感じたのも、師父が僕を励まされているに違いありません。

 半年ほど前、ある夢を見ました。夢の中で、ある声が僕に向かって、「これは執着心のない顔だ」と言いました。目が覚めて、この夢を思い出してみましたが、自分はまだまだたくさんの執着心を取り除いていないことに気づかされました。それならば「執着心のない顔」を目標にし、「修して執著を一つも漏らすこと無きを得れば」[3]の教えを常に自分に言い聞かせ、圓満成就したいと思います。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪
 [2] 李洪志師父の著作:『各地での説法九』「二〇〇九年ワシントンDC国際法会での説法」
 [3] 李洪志師父の詩:『洪吟』「迷いの中で修める」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2018/7/8/370741.html)
 
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