文/中国の大法弟子 小蓮
【明慧日本2018年12月5日】師父は「大法弟子がこの環境の中で形成した高い境地での行為は、その一言一行を含めて、人に自分の足りないところを認識させ、ほかの人との差を気づかせ、人を感動させ、人間の行為を熔煉させ、人間を早く向上させることができます」[1] と説かれました。特に法を正すこの時期に、同修たちは法に基づいて交流することにより、法を正す使命をさらに果たすことが出来ます。逆に、邪悪に隙に乗じられたならば、個人修煉や法を実証することにまで大きく影響されます。
数日前、ある同修は「あなたは知っていますか? 同修Aさん夫婦の間にはずっと前からトラブルがあります。しかしその件で、彼らは周りの同修と交流したくないそうです。彼らはきっと自分の問題をわざと隠しています」と言いました。この話を聞いた後、私は考えました。私達は他の人の問題を聞いたとき、同修の不足ばかりみてはいけません。その時、どちらもが内に向かって探すべきです。確かに、Aさん夫婦の間のトラブルについて、人に知られたくないような人心や、面子を保つための何らかの執着心があります。しかし、考えてみてください。Aさん夫婦はどうして皆と交流したくないのですか? 私達の修煉の環境について、同修はどうしてこんなに「恐れている」のですか? 私達の方にも問題があるのではないでしょうか。
同修は自分の問題を晒したとき、多くの場合、私達は法に基づいて交流することが出来なくて、よくあることですが、同修のことを陰で皮肉を言ったり、軽蔑したり、責めたり、誹謗中傷することすらあるのではないですか。このような環境は師父が望んでおられる環境でしょうか? こんな環境の中に同修は私達の暖かさを感じることが出来ますか? このようなことを何回も繰り返して行ったなら、人心のある同修はもう自分の本音を周りの同修に話したくなくなります。知らないうちに同修間の隔たりとなってしまいます。
師父は「自分自身を修めてください。私は大法弟子の環境を互いに批判しあう環境にしたくありません。私はこの環境を、批評を受け入れると同時に、内に向けて探すことのできる環境にしたいのです。皆、自らを修め、すべての人が内に向けて探し、誰もがしっかりと自らを修めることができれば、衝突は少なくなるのではありませんか? この道理は、私が法を伝え始めた当初から、今日まで説き続けています。そうではありませんか? 修煉者は決して、叱責されることによって良くなるのではなく、師父である私の批評によって良くなったり、皆さんが互いに批評叱責しあうことによって良くなったりするものでもありません。皆さんが自分で自身を修めることによって、良くなるのです。師父が今日、ここまで法を説いたから、皆さんは今から、このことを重視すべきです」[2] と説かれました。
すべての修煉者は、誰もが大なり小なり修煉の中に不足があると思います。不足に対して、修煉者本人や周りの同修も同じですが、もし皆法に基づいて対処することができれば、これこそ、師父が求められていることだと思います。私たちは同修の執着心を聞いたとき、また、それらに気づいたとき、同修を恨んだり、愚痴を言ったりしてはいけません。「慈悲なる善の心」で同修の不足を指摘することができれば、とても修煉者らしいのですが、それと同時に私達は「人を自分の鏡」として、自分も内に向かって探すべきです。誰もが内に向かって探せば、これこそ、最も良い修煉環境ではないかと私は思います。
個人的な体験なので、同修の皆さんはあくまでも参考としてください。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「環境」
[2] 李洪志師父の経文:『ロサンゼルス法会での説法』