文/中国の大法弟子
【明慧日本2018年11月9日】ある日の朝、起きると左半分の顔が大きく腫れ上っているのに気がつきました。唇の左側も曲がってしまい、非常に恐ろしい形相(ぎょうそう)になっていました。しかし、不思議なことに、痛みもなければ、熱も出ていません。実質的な痛みなどは、全て師父が代わりに引き受けてくださり、ただ残された黒い気が外に溢れることによって現れた現象に、私はじっと耐えているだけです。私はこの状態に気を取られることなく、いつも通りに生活しました。
しかし、私は常人に大法が迫害されている真相を伝えなければならないので、このような顔で外に出て行くのは、常人に悪い印象を与えるのではないでしょうか。このようなことが起こった原因は一体何かと考えてみました。
ふと、今回のこの難関は私を法から離脱させ、常人の思想で物事を考えさせることが目的ではないかと言うことに気づきました。邪悪の目的が分かれば、それに反して進まなければなりません。それからは、1日3講の『轉法輪』を勉強し、煉功もして身体を浄化し、そして、長時間かけて発正念をして邪悪を除去していくようにしました。そして、3日後、顔が元通りになりました。特別に何かしたわけではなく、私自身も訳が分からないまま今回の関を乗り越えたのです。
その後、同じような関が再びやってき来ましたが、私は上記の方法でまた乗り越えられました。
この2回の関を通じて、ふと昔、「完璧」に乗り越えた難関を思い出しました。
あれは2000年の初めの頃のことでした。私と同修が不当に留置所に拘禁されている時、ある同修は煉功をしていたため、警官に手錠を掛けられ頭上の手すりに吊るされたのです。自分も煉功して同修を励まそうと思った私も、同じような結果になり、それどころか、両手を1回ひねられて頭上に固定されてしまったのです。つま先立ちのため、両手に全体重がかかっているので、すぐに耐えられなくなりました。どうするかと悩んだところ、『轉法輪』を暗唱することにしました。すると、腕の痛みがなくなり、『轉法輪』を暗唱し終えると、その日はあっという間に過ぎていきました。夜になり、「また修煉するか」と警官に聞かれたところ、「私は諦めない!」と答えたので、十数回も平手打ちをされました。依然と答えを変えない私を見て、その警官は私の両手を背中に回して手錠をかけました。夜寝る時、両手を前に回して寝て、朝になると、また後ろに回しました。朝8時から外で吊るされて昼ご飯も食べられず、夜6時に部屋に戻されるというような日々が続く中で、私は毎日『轉法輪』を暗唱していたため、あまり苦を感じませんでした。何日経っても意志を変えない私を見た警官はその後、何もしてこなくなりました。こうして、この関を乗り越えることができたのです。今思い返せばあの時、苦に耐える関を乗り越えるなどといった様な概念が全くなかったのです。
師父は「ご存知ですか? ただ修煉について言えば、宇宙の低次元においてはとても複雑ですが、高次元になるととても簡単になり、修煉という概念もなく、ただ業力の消去という概念だけになります。更に高い次元になると、全ての厄介なことは天に上るための道を開いているだけであると言っています。それより更に高い次元になると、業力の消去や苦を嘗めることや、修煉などの概念もなく、選択ということしかありません! 宇宙の高次元ではこのような理であり、誰ができるのかを見て、その人を選ぶのです。これが理なのです。修煉とは何ですか? 私たちは修煉を按排しませんでした。修煉とは何ですか? 私たちはそれをきれいに洗い、一歩一歩上へ目指してきれいに洗うことであり、他でもなくきれいに洗うことです! しかし、異なる次元で道を開くこと、厄介なこと、苦を嘗めること、業力の消去と修煉として表れ、このように修め、あのように煉ることになりました」[1]と説かれました。
また、師父は「今になって、なぜわたしがいつも皆さんに本を多く読むようにと言っているのか、皆さんもよりはっきりと分かったでしょう! 法は一切の執着を打破することができ、一切の邪悪を打破することができ、一切の虚言を排除することができ、法は正念を固めることができるのです」[2] とも説かれました。
我々はただこの法に同化し全身全霊大法に融け込めば、いかなる関も魔難もきっと我々から遠ざかるでしょう。なぜなら、我々はその中にいないのです。我々が大法を選び、師父と大法もまた我々を選んだのです!
いかなる難関や複雑な状況に遭っても、「法に同化する」という原則を守って行動すれば、きっと乗り越えられるはずです。なぜなら、旧勢力は我々を大法から切り離すことが目的なのです。心身共に大法に融け込んでいけば、知らないうちに難関を乗り越え、業力も消去され、執着心も取り除かれるでしょう。
師父にとって、法が人間界を正すのは一瞬の事です。我々の前に立ちはだかっているのは他の何ものでもなく、我々自身の観念なのです! 常人の事は大したことではなく、一瞬にして全てが終わるのです。旧勢力の按排が何だというのですか。真相を伝え、衆生を救うことこそ、師父が按排してくださった修煉の道なのです。その中に旧勢力の存在はありません。
真に法に融け込んだ時、暖かくて柔らかい感じがしました。それはまるで初春の陽光を浴びているかのようで、暖かくて、柔らかくて、淡くて、全身の全ての細胞から本源の微粒子に至るまで浸透し、法の広大なエネルギー場に包まれて、心の底から喜びがあふれ出る何とも言い難い愉快な気持ちになれるのです。それは常人の言う楽しさや愉快さではなく、人間の言葉では言い表わせられない素晴らしい気持ちなのです。
全ての人心を放下して、法に融け込みましょう。これこそが我々の存在意義であり、本望なのです。
注:
[1] 李洪志師父の経文:『二〇〇三年元宵節での説法』
[2] 李洪志師父の著作:『精進要旨二』「妨害を排除せよ」