同修を従わせることは法から外れる道に導くことである
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2018年11月30日】ある同修のAさんは、自分が修煉がよくできているので、ついて行けない同修を見ると非常に焦ってしまい、法を正す進展について行けるようにと皆と交流しました。

 この過程の中で向上した同修たちは、皆Aさんは修煉がよくできていて自分を助けてくれたと思い、それ以来、何かあったら自然と交流するようになりました。時には、自分が法理上で悟ったことについて、Aさんに聞かないと落ち着かず、Aさんに認められると安心します。次第に、多くの同修はAさんを崇拝するようになりました。そのため、何かの問題にぶつかると、自ら学法をして法に基づいて悟り、自分の修煉の道を歩むのではなく、Aさんの所に行って交流するのです。Aさんも同じく道義上断れず、「来る者は拒まず」とばかりに、あれこれと自分の認識を話すようになりました。そのうちAさんには執着心が生まれ、どんなことに対しても教えたがるようになりました。

 このような現象は各地区にも現れており、同じ地区で連続して現れたケースもあります。たとえば、この時期にAさんがこのようにすると、Bさんも同じことをし、続いてCさんも似たようなことをしたりしています。ただAさんは法理について、比較的はっきりとした認識があるので、Aさんの法理上の認識を皆が聞くのです。Bさんは真相を伝えることにおいて経験が豊富なので、皆がBさんのやり方を真似ています。ついにAさん、Bさん、Cさんは次から次へと旧勢力に迫害されてしまいました。周りの同修たちも法に基づいて向上していないため、ただAさんやBさん、Cさんの真似を表面上しただけに過ぎません。

 最初、Aさんは確かに善意を持って、皆と共に向上できればと思い手伝ってあげたいという考えだったと思います。しかし、そのうちに名利心が芽生え、魔に利用されて逆効果となりました。皆がAさんについて行くということは、実はAさんが同修を連れて法から外れてしまい、法を破壊することになります。個人の認識ですが、すべての大法弟子は何かの問題があれば、自分で多く法を学び、心性上のことも同じく、法に照らして内に向けて探し、執着心を取り除いて向上すべきです。もし、長期にわたり自分では問題を見つけることが出来なければ、そばにいる同修は善意を持って同修のために指摘すべきです。指摘された本人は法に照らして同修の話しは法に基づいているかどうかを判断し、法に則っていれば、法に従って自分を正すべきです。

 修煉は各自のことであり、そばにいる同修は指摘することしかできず、同修を連れて修煉することはできません。法を実証し衆生を救い済度することについて、すべての大法弟子は自分で多く法を学び、法に基づいてどのようにすべきかを自ら考えるべきです。それから自分の理解を皆と共有し、話し合って最も有効な方法を決めた上で、皆が協調して全体を成してやり遂げるべきです。Aさんは修煉がよく出来ていると思い、皆がAさんの態度を見てAさんの意見を待つべきではありません。

 ある学法チームの同修は、次から次へと病業の形でこの世を去りました。同じ学法チームの同修として、根本から内に向けて探さない場合があります。学法チームの全体が法からずれているのではないか? どの地区でも精進している同修と精進していない同修がおり、なぜ自分の学法チームで次から次へと問題が発生するのでしょうか? ある協調人は「最近、自分は忙しすぎて、あまり学法に参加していなかった」と話しました。もし、協調人がそばにいなければ、次から次へと問題が起きるのならば、このような状態自体が正常ではないのです。協調人がいなくても、私達には「師」がおられ、「法」があるのではありませんか!! どうして協調人ばかりを見るのでしょうか。

 数日前、明慧ネットで「三つの夢の場面」という文章が掲載されていました。一つの場面は、とても大きな試験会場で大勢の人達がテストを受けていました。しかし、多くの人が互いに同一の回答用紙を回して写し合い、とても秩序よく回していました。この文章を見ておかしいと感じました。これは確かに現時点に存在している深刻な問題です。「法」ではなく「人」から学び、その上、真似をして三つのことを行っています。修煉の最後の段階に入って、大法弟子の間の次元もかなりかけ離れてしまっていることは明らかです。しかし、師父は常に「法を師とすべきです」[1]と説かれています。これは永遠に変わらないことです。

 数年前に見た夢を未だに最近見たかのようにはっきりと覚えています。それは、自分が出演する前に舞台に上がって、様々な道具やカツラが用意されているのを見て「これがあれば、演技がしやすくなる!」と嬉しく思い、置かれていたカツラを直ぐにかぶろうとしました。その時突然、上空から厳しい声で「それは、あなたのために用意されたものではありません! あなたはそれをつけて出演してはいけません!」と鳴り響きました。実は、自分が着実に法に基づいて修めて悟ったことや行動したものでなければ、いくらよく真似をしてもなんの役にも立たないものであり、認められないのです。

 師父は、私たちにこのように説かれています。「皆さんに法を大切にし、法を多く勉強するようにと教えました。必ず繰り返し本を読むべきであり、このようにすればあなたは既に向上の中にいます。私は私の能力をこの大法に注ぎ込んでおり、学んでいればあなたは変わっており、向上しており、最後まで学ぶことができれば圓満成就することができます」[2]

 大法はすべての源であり、大法弟子はすべてその中の生命です。これほど「偉大な大法」があるのに、どうしてそれに基づいて着実に修めないのでしょうか? 法を正す段階はすでに最後の最後に来ており、細心の注意を払って、自分の歩んできた道を大切にし、邁進すべきです!! 旧勢力は大法弟子がしっかりと修煉して、圓満成就して欲しくありません。もし、今日に至ってもはっきりと「法」に従って修めることが出来ず、「法」ではなく「人」から学ぶのであれば、旧勢力の付け入る道に入ってしまい、自分が向上することが出来なくなるだけではなく、旧勢力に隙に乗じられて、同修までも引きずり下ろしてしまう可能性があります!

 師父はこのように説かれています。「どんなことが現れてこようと、心性をしっかり制御しなければなりません。大法に従っているものだけが本当に正しいのです」[3]

 個人の体得ですが、不足なところがあれば慈悲なるご指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『シドニー法会での説法』
 [2] 李洪志師父の経文:『米国東部法会での説法』
 [3] 李洪志師父の著作:『轉法輪

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2018/10/30/376069.html)
 
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