「しっかり修煉ができている」ことに対する理解
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文╱中国の大法弟子

 明慧日本2018年9月13日】

 一、このような心はとても危険

 交流会で、ある同修は皆の前で、自分が長年に亘って同修に心を尽くしたのに、同修が意気地がなく、そのため、全体を形成することがとても難しかったと話しました。

 それを聞いて、内に向けて自分を探してみました。私ははっきりと、自分には自慢する心や顕示心があることを意識しました。自分が二十数年の修煉の中で、三つのことをたくさん行なって来て、たくさんのことに耐えて来たと考えていたからです。

 掘り下げて行くと、さらに深く隠れていた人心が顕れました。それは自分が大法の要求にはまだまだ到達していないのですが、苦労したので、将来、たとえ他のよく修煉できた同修のように大円満にならなくても、師父からきっといっぱいいただけるだろうと期待していました。私は「それは大法を利用したい、自分の私心を満たしたい、自分の目的を達成したいという深く隠れている人心だ」とはっきりと認識しました。

 更にもう一つもっと分かりづらい表れがあります。それは自分が長年たくさんの事をやって来たが、自分には報いを求める心はなく、自分がやってきた全ては師父が見ておられ、全て知っておられると考えていました。それも上述した考えと本質的に同じだと思いました。

 師について降りて来た過程で、三界に至るまでに私達は当時の旧宇宙の幾重にも重なる変異した観念を埋めこまれ、旧勢力は私達に系統的に多くの悪巧みを仕込みました。特にこの数十年来、多くの同修は生まれてから中国共産党による邪悪な観念を絶え間なく注ぎ込まれ、その結果、先天的な本性が全く顕れて来なくなりました。しかし、私達の先天的本性は100%大法に同化したものです。修煉の過程において、大法に基づいて堅実に行ない、一歩一歩着実に進み、それぞれの次元の基準要求に到達することができれば、大法はきっと私達の観念、不純物を洗い落としてくださり、最終的に真の自分が顕れ、先天的本性を必ず取り戻すことができると思いました。

 二、「しっかり修煉ができている」ことに対する理解

 私達は今いる次元でもうすぐ基準を満たしそうになった時、私達は皆真の弟子のように自ら厳しく要求し、主意識がとても強く、頭の中には常にどれが正念なのか、どれが人心なのかを区別することができます。しかし、一旦基準に到達した部分が切り離されると、私達はまたまた常人の中に落ちてしまい、常人の振る舞いがいっぱい現れて来るのです。ですから、私達は修煉の過程においては、状態がいつも良かったり悪かったりして、安定したものではありません。

 それは私達の修煉がまだまだ低く、法の要求にはまだまだ到達していないからです。もし私達がしっかりと行なっていて、しっかり修めた部分が切り離されてからも、依然としてしっかり法を学び、強い正念を持ち、厳しく自分を要求し、自ら進んで内に向けて探すことができれば、私達は相対的に安定した修煉状態になり、やっと「しっかり修煉ができている」ことに近づいてきたと言えるでしょう。

 三、同修間の褒め合いについて考える

 入門して間もない同修にとっては、互いに褒め合うことは励みになりますが、一定の次元になると、他の人が私を褒めたときは、私に褒め言葉を聞きたがる心、つまり名誉を求める心があるからだと思いました。

 もし本当にとてもよく修煉ができていれば、他の人にどのようなイメージを与えるのでしょうか? 私の理解では、決してその人が如何にもよく修煉ができているという振る舞いではなく、それは心から師父と大法の慈悲深さと偉大さに対する感謝の姿ではないでしょうか。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2018/9/2/373205.html)
 
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