明慧法会|英文明慧での仕事の体験
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 文/海外の大法弟子

 【明慧日本2018年8月1日】

 尊敬する師父、こんにちは!

 同修の皆さん、こんにちは!

 私はここで、英文明慧での体験について交流します。

 一、師父の按排は最良のものである

 私は2000年に英文明慧をやり始めました。その時、米国に来たばかりで、勉強して1年も経っておらず、英文の文章を書く力は強いわけではありませんでした。しかし、このプロジェクトは人が足らなかったので、私は翻訳を始めました。その頃、このプロジェクトを行って最も印象深かったのは、私たちが心をもってこのプロジェクトを行えば、師父は私たちに最もよい按排をしてくださる、ということでした。私が翻訳するには技能を必要とし、師父は私に知恵を与えてくださいました。私は翻訳するのに多くの時間を必要としましたが、師父は比較的弾力性に富んだ仕事を私に按排してくださったのです。明慧のプロジェクトの中で訓練した技能は、常人の仕事においてもよい働きがありました。そして、常人の仕事の中で得た知識も大法のプロジェクトに対して、さらに良い働きがありました。私は師父の見事な按排に何回も感心させられました。なぜなら、なにもかも一切が私を精進させることによって成長させ、師を手伝い法を正す私自身の使命を果たさせてくださったからです。

 私が翻訳を始めたばかりの時、一般的に文法的な誤りは犯しませんでしたが、単語を使って文を作るのはとても中国的なものでした。はっきりと覚えているのですが、ある文章で、大法弟子に子供が生まれそうだ、と書かれてあったので、私はすぐに「她快生孩子了(もうすぐ子供が生まれる)」と直接的に翻訳しました。すると、ある西洋人の同修が私が翻訳したその言葉をより英語らしい表現方法に変えました。その時から、その西洋人同修がどのように文を作るのかに留意し、アメリカの主流メディアの文章を読み始め、各メディアがどのように違った分野の文章を書くのかを観察し始めました。そして、大法を実証する仕事をすることで、英文で文章を書く私の力が向上したことに気がつきました。私の卒業論文を読んだ後、博士課程の指導教官は驚きながら「英語で文章を書くあなたの力はたいへん強い」と言ってくれました。私のようなアメリカに来て何年も経たない留学生が、こんなに流ちょうに書けるなんて思わなかった、と博士課程の指導教官は言いました。明慧の仕事によって文章を書く私の力が鍛えられた、ことを私は知っていました。同時に、学生としての私の生涯では、多くの学術文章を読まなければならず、どのように研究がなされたのかを学習しなければなりませんでした。当時、私は助教授をしており、毎週4時間、ゼミで教えていました。常人の中での学習と授業はアメリカ人の考え方と、アメリカ人の書面と口語による表現習慣をさらに理解する助けとなりました。そして、翻訳を行う時、どのように読者に受け入れられるように文章を作るのか、をさらに留意するようになりました。

 私は卒業後も研究と授業を続け、アメリカ社会と接触する機会がさらに多くなりました。そして、私の仕事の中における多くの経験は明慧の仕事の助けとなりました。

 師父は「現在、皆さんは他でもなく、更にしっかりと行い、効率よく行い、より広い範囲に影響を与え、更に多くの人を救うことができるようにすべきです」[1]と説かれました。

 私たちが毎回翻訳した文章は衆生を救い済度する働きを持っていますが、もし文章の翻訳が正確でないか、あるいはレベルが低かったならば、読者は読もうとせず、文章が持つ当然の働きさえ用をなさないことになります。常人の中での仕事で、どのように行えばさらに効果があるのかが訓練され、どのように客の立場から問題を考えるのか、が訓練されました。そして、明慧の翻訳をする時、私たちの文章がどのように衆生を救い済度する力をさらに持ち、どのように読者群を広めていくのか、について注意して思考するようになりました。

 翻訳をする時、私はいつも師父が知恵を与えてくださっているのを感じています。多くの場合、英単語が自動的に頭の中に現れてくるので、ただそれを書くだけでよかったのです。私の常人の仕事も受益するところが大でした。なぜなら、私は私たちのプロジェクトに多くの時間を費やしましたが、常人の仕事も多くの精力を論文を書くことに投入しなければならなかったからです。そして、論文を出す時、師父が研究するための知恵を授けてくださいました。また、ある時はどのような題目の論文を書けばよいのかわかりませんでしたが、突然、師父がアイデアを授けてくださったかのように感じ、何の研究をすればよいのかがすぐにわかりました。

 約1年6カ月の間、私は私たちの翻訳担当の同修にオンラインでのトレーニングを行いました。興味深いことは、私の仕事場でもしばらくしてから、大規模なインターネット授業が始まったことです。これは、私が明慧の翻訳者の育成を行うための新しい多くの考えを開いてくれました。

 私の修煉と常人の仕事に対しての師父の見事な按排を、私は何度も感じました。ですから、師父に対する感謝の気持ちを伝えるには、どんな言葉でも足りません。

 二、辛抱強さと心の容量が生まれてくる

 私はこの数年、自分で翻訳を行う以外に、翻訳を行う同修の育成にも責任を負っており、中国語明慧の文章をよりよく英語に翻訳できるように、同修を手助けしました。始めた時、研修資料を作るのに多くの精力を使い、私たちの翻訳担当の同修に資料を提供しました。しかし、ある者はいつも同じような文法の間違いやその他の間違いを犯しました。そこで、私は1編ずつ校正しましたが、ある人はやはり同じような間違いを繰り返しました。そこで、私は非常に気落ちし、私が提供した資料が私たちの翻訳にフィードバックされることが注目されず、私の貴重な時間が浪費されたことを心の中でひそかに恨みました。当時、1人の協調人がおり、私がいつもその協調人に苦労を訴えると、その協調人はいつも辛抱強くあるようにと、私をこれまた辛抱強く励ましてくれました。

 師父は「修煉者として、どんなことがあっても、あなたは神の道を歩んでいる人であり、皆さんも分かっているように、神の道を歩んでいる人は普通の生命、普通の人間と違いがあります。しかし、皆さんは常人の中で修煉し、行為や服装、言動まで常人と何の違いもありません。最大の違いはトラブルに遭い、何かの事に遭うとき、自分の心から原因を探すことができることです。『私に何かの間違いがあったからではないでしょうか?』、『私のせいでこのことは順調に進まなくなったのでしょうか?』という具合です。これは唯一、常人との顕著な違いです」[2]と説かれました。

 私たちの翻訳担当の同修には問題がないことに私はだんだんと気づき、自分に問題があるのだ、ということに気づいてきました。というのも、私は自分の基準と方法で他の人に要求していましたが、各々が異なった学習方式と学習進度を持っていることを忘れていたのです。そして、さらに大きな忍耐強さとさらに大きな心の容量を持たなければならないことを私は知りました。そして、私たちを救い済度するのにさらに大きな忍耐強さを師父が必要となさっていることを私は思い出しました。それでは私はどうだったかというと、1人の大法弟子として、多くの行いにおいて基準に達していないところが多かったのですが、それでも師父は私を見捨てられず、研修の仕事において師父が私に知恵を授けてくださったことを私はいつも感じていました。そして、自分の基準で他の人に要求することはできないことに気づき、他の人がある時間にある基準にまで必ず達成しなければならない、と要求することはできないことにも気づかされました。そして、私が他の人を変えることはできず、私が変えることができるのは自分だけであるということです。

 不思議なことに私の心が変わると、私たちの翻訳担当の同修は突然得心したかのように変わり、翻訳担当の同修たちは突然、いつものようには同じミスを犯さなくなり、同修たちの翻訳の質と量は進展し始めたのです。あれから1~2年後、私たちのグループの翻訳の質と量は大幅に向上しました。なんと、不可能だと思われていたことに、突然、質の変化が訪れた、と私はまず感じたのです。

 私がこの経験から学んだことは、私たちが自分の内に向けて探した時、周りのすべてが変わるのだ、ということでした。表面上、私は研修を行っていましたが、実際は、私自身を修煉するためのこの機会を師父が按排してくださっていたのです。そして、私はいつも他の同修の浄化された心に感動を受けていました。他の同修はみな、家庭や仕事、生活があるか、あるいは大法を実証する他のプロジェクトを持っていました。時間を見つけては明慧の仕事を行い、それぞれのできる限りの努力でこのプロジェクトをしっかり行っていました。私には同修たちに対する敬意と敬服しかもうありませんでした。私が明慧を行うよう按排してくださった師父にとても感謝し、あんなにも精進している同修と共に、仕事ができるよう按排してくださった師父に、感謝申し上げました。

 三、満足心と私利私欲を修煉して取り除く

 ある協調人はいつも英文明慧を見ており、ある提案を私たちに行いました。その協調人が提示してくれた意見に、最初は感激しましたが、だんだんと私のイライラは限界に達してきました。私たちのそれぞれの文章にはみなとても多くの精力が使われていましたが、その協調人はいつもあれこれと選り好みをしていました。そして、私たちが翻訳を行う際の原則をその協調人は認めていない、と私は感じました。そして、いくつかの文章について、その協調人が何回も多くの追及を行ってきた時、私の忍耐強さも消え失せてしまい、私は非常に気落ちしました。ちょうどその頃、私の常人の仕事が非常に忙しくなったので、もうこのプロジェクトは行わないと決心しました。そして、私はその協調人に手紙を出し、同時に、私たちのプロジェクトのその他2人の責任者にも手紙を出しました。

 その後、責任者たちの反応に、自分がとてもわがままであったことに気づかされました。責任者たちは私を責めず、明慧の目的を忘れないように、と私を励ましてくれました。それは私の使命であるのに、どうして簡単にこのプロジェクトを放棄することができたでしょうか?

 冷静になった後、私は恥ずかしく感じました。この関を、私はやっとのことで乗り越えました。研修を行う過程で、うぬぼれが強くなっていき、提案を聞き入れなくなり、虚栄心が生まれ、私自身と自分が責任を負っているこのグループを保護しようとする心が生まれたことに気づきました。この協調人の提案が他の責任者のグループの翻訳文章についてであることに気づいた時、自分とは関係がない、と感じたことを思い出しました。しかし、その協調人の提案が私が責任を負っているグループの文章に及んだ時になって、私は関心を初めて示したのです。

 師父は「皆さんはあることに気をつけるべきです。つまり、皆さんは法を実証しているのであって、自分自身を証明しているのではないということです。大法弟子の責任は法を実証することです。法を実証することも修煉です。修煉の中で他でもなく自我に対する執着を取り除くことであり、意識的にまたは無意識的に自分自身を証明することをかえって助長してしまうようなことをしてはいけません」[3]と説かれました。

 自分には私心が生まれ、私が行う明慧の目的がすでに不純になってしまったことに、私は気づきました。私は自分のグループがよく行うことだけを考えていましたが、他のグループの状況には関心を持っていませんでした。これは一種の私利私欲の表れであり、自分の英文がうまく、能力が強いことを実証しようとしていただけでした。私たちの異なるグループは一つの全体であり、私たちの共通の目的は読者が読みたくなるような文章を翻訳し、衆生を救い済度する役割を果たすことです。

 その協調人の提案を振り返って再び何度も読んだ時、その協調人が私たちの文章を時間をかけて読んでくれていたことに心の底から感謝し、私たちに提案してくれたことに感謝しました。そして、その協調人の提案は的を射ており、私たちには確かに改善すべき点があることに気づきました。

 私が行う明慧の目的を気づかせるこの機会をくださった師父に、感謝申し上げました。それは、自分自身を実証するためではなく、自分の英文能力を顕示するためのものでもありません。それは、法を実証するためのものであり、衆生を救い済度するためのものでした。

 四、この修煉環境を大切にする

 このプロジェクトでは、毎日、多くの時間パソコンの前にいる必要があります。さらに、安全を考えて、他の大法弟子に私たちが行っていることを伝えることもできません。そして、時には疲れを感じることもあり、新鮮なプロジェクトを探して、行いたいと思うこともあります。しかし、すぐに私の使命がここにあることがわかり、これは自分の楽しみのためではなく、師が法を正すことを手伝うために行っていることでした。私たちのプロジェクトの中には、私よりもさらに長い時間行っている同修もおり、その同修たちは名前が知られることもなく、しっかり行いながら、恨み言を何も言わないのです。それは、その同修たちはこのプロジェクトの中で、自分の使命を果たしているからです。これこそが私の修煉に対する按排であることがわかりました。それぞれの同修には異なった修煉の道があります。時間がある時に、私は別のプロジェクトを行うこともできましたが、私の使命はここにあるのです。ですから、私は英文明慧でのこれらの仕事を絶対に放棄しません!!

 ありがとうございます、師父!

 ありがとうございます、同修の皆さん!

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『各地での説法八』「米国首都での説法」
 [2] 李洪志師父の経文:『二〇一三年大ニューヨーク地区法会での説法』
 [3] 李洪志師父の著作:『各地での説法六』「アジア太平洋地区学習者会議での説法」

 (2018年明慧法会の発表文章より一部の内容を要約したもの)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2018/7/13/370792.html)
 
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