「独りよがり」について 少し論ずる
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文/中国の大法弟子

  【明慧日本2019年3月5日】「独りよがり」は修煉環境の中での考え方としては次のようです。まず自分は正しいのだという思いに執着して、自分はこんなふうにやりたいとか、やっていることは皆正しいと思い込んでいます。それには理由があることに執着し、他人の良くないことがらに執着し、他人を変えようと努め、さらにはある手段で他人を強制します。今日はこれらの後の部分について話したいと思います。

 往々にして同修が他人の良くないところに執着するとき、悪意ではなく他人の欠点ばかりが見え、他人を心配し、あるいは全体の向上がよく出来ていないから、衆生を救い済度することに影響を与えていると心配していますが、実は、自分の問題に全く気づいていません。

 中国では中国共産党文化に汚染されていない同修は、独りよがりの現れが少ないと思います。しかし、独りよがりは中国共産党文化だけではなく、古代の中国にも「智者は近隣を疑う」という物語があります。自分の判断を重んじ、自分の観点こそが正しいと思うのは「独りよがり」の考え方です。

 修煉の基点から見ると、他人に自分の考えに従ってやるようにと要求することは、師父の説法に符合しているでしょうか? 

 当然、同修の問題に気づいたら指摘すべきです。また同修のそれらの行為が大法にマイナスの要素をもたらしたのなら、これを制止しなければなりません。どのように指摘するのか、どのように制止するのでしょうか? 師父のお教えは「善を勧め」 [1]、「居場所を与えず」[2]、それに「相手の態度もちょうど修煉の機会ではありませんか?」[3]です。

 大法修煉者の考えの中で独りよがりが現れ、それに気がつかないと自分はその問題に対して、同修より高く悟っており、よく修めていると思えば、それはもう「自らの心から魔が生じた」[4] の危険な境地に陥っているのです。また、それらの執着心によって、同修の中で隔たりを作るかもしれません。そうなれば、同修を助けて全体を向上させる初志とは、全く違う結果になるのです。

 以上は、私の現次元での悟りなので、法に合わないところがあればご指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父著作:『法輪大法義解』「長春法輪大法輔導員のための説法」
 [2] 李洪志師父の経文:『米国西部法会での説法』
 [3] 李洪志師父の経文:『カナダ法会での説法』
 [4] 李洪志師父著作:『轉法輪

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/2/11/382570.html)
 
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