自我中心の考えは執着である
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2018年12月18日】今日、明慧ネットの交流文章を見て、突然、ずっと自分に存在し、認識できなかった根本的な執着心を見付けることが出来ました。それは自我に執着する心です。

 私は田舎育ちでしたが、記憶のあるときから、内心で、生まれながら持っていた、際立った優越感を感じていました。普段、子供同士の遊びにしても、親と一緒に親戚廻りをしても、何ということなく私は常に周りにいる皆の注目の的でした。

 例えば、小学校の時に、母のしつけが厳しかったため、朝、早めの登校は禁じられていました。遊び仲間の子たちは、同じクラスにせよ、同じクラスではないにせよ、また学年が違う子でも、家に寄ってくれ、私の時間に合わせて、私と一緒に登校して行くのでした。夏、外で涼んでいる時、大人たちが近所の子供たちを集めて、みんなを引き連れてゲームをするようにと私に任せるのでした。放課後、近隣の村の子供たちと泥んこ遊びをして、遊びに飽きた私が抜けると、皆も自然に解散して帰宅していきます。また、学校の先生にも気に入られ、成績が良くなくても変わりありませんでした。就職した後は、上司に可愛がられました。私は常に注目される存在でいる自分に慣れ、これははごく自然なことだと思い、特に意識すらしていませんでした。

 修煉してから、はじめて自分の以前の状態は間違いだと気づき、思い出しただけで、赤面してしまいます。しかし、自分の行動において、師父に教わった真・善・忍の基準に則って、要求するものの、内面で形成された、自我のため、「私」のための考えをずっとはっきりと認識することが出来ず、意識して自分を修めなかったため、自分を昇華させ浄化に至るまでにはなおさら出来ませんでした。

 迫害を受けて、不法に強制収容されていた時に、ある若い同修が収容所から出る前に、集団の中で、周囲の人が自分を中心にする現象は自分が良く修めた表れだと言いました。当時、自分の修煉状態に漏れがあったため、その同修の言葉に問題があることに気づくことが出来ず、彼女の言葉に賛同しました。今、振り返れば、あのような考えは典型的な自己中心的な考えではないかと反省しています。その後、若い同修は、私がまだ収容所にいた時に、また不法に連行され、収容されました。無意識に自我を実証する執着心を旧勢力につけ込まれたのでした。

 また、同修との交流の中で、ある同修は幼いころから、自分はほかの子供と遊んでいても、常に自分が部外者でいるように感じ、夢中になることがなかったと言います。私も同修の話に共感し、同修と交流した挙句、自分は特別な存在で、心は俗世間から離れた人間だと思い、甚だしきに至っては、師父がとりわけ自分のことをご加護してくださっているのだと勘違いしました。師父は、「この煉功では、わたしの天目がいちばんよく開いており、もしかすると、わたしは普通の人ではないかも知れない。李先生の法輪大法を学べただけではなく、こんなに上達して、誰よりも優れているのだから、わたしは普通の人ではないのだ』こう考えただけですでに間違っています」[1]といわれました。こんな自分はすでに自分の心より魔を生じる兆候が生じていたのではないでしょうか? 今、当時のこの考えを振り返って、本当に冷や汗をかくほど驚きました。

 実は目立たないが、おのずと自我を中心にしてしまう考えは、自我に執着する執着心そのものであることを、今日になってはじめてはっきり認識できたのです。この「私」のため、自我のための心を取り除いてこそ、はじめて真に三つのことを上手く行なうことができ、三つのことを行なう時に自分自身を実証するのではなく、法を実証することが確実に出来るのです。

 注:
 [1]  李洪志师父の著作:『轉法輪

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2018/10/30/376068.html)
 
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