文/中国の大法弟子
【明慧日本2018年8月12日】私は毎期の「明慧週刊」を真面目に読んでいます。同修の文章から深く啓発され、同修と自分との差や自分の不足している部分に気づかされます。一つの文章を読んだ後、私は、この文章から何を勉強できたのか、どの辺がまだ足りず向上すべきなのか、同修が触れたこの問題は自分にも存在しているのか、法の中にはどのように説かれているのか、自分はどのように対処すべきなのか等をいつも自分に問いかけました。
ある時、同修が書いたのはちょうど自分が最近悟ったものと同じでした。同修は私が伝えたかったことを書いていると感じました。ある時は、同修の強大な正念に震撼され、自分も力が満ちあふれました。ある時は、同修の善の念に感動し涙が出ました。そして、私も多くの魔性を取り除きました。
今日、私は自分の修煉の体験を書いて、同修の皆さんと交流したいと思います、これは自分の修煉のまとめにもなります。法に則っていない部分に関しては、法に従うようお願いします。
修煉する中で執着を捨てるべきなのは皆分かっています。修煉は執着を捨てる過程でもあります。修煉の過去を振り返ってみると、苦難の中で、矛盾の中で、毎回自分を深く掘り下げ、自分に対してこれは何の心なのか? これはどの観念で、どの考え方が間違っているのか? なぜこういう観念があるのか? この観念はどうやってできたのか? 私の出発点と目的は何なのか? 私はなぜこんなに恨んでいるのか? 私は何のために修煉しているのか? なぜ執着を捨てるべきなのか? なぜ執着するのか? 私はなぜこんなに怖がるのか? 私はなぜこんなに心配するのか? 私は大法をどのように扱っているのか? 人とは一体何なのか? 私はなぜ生きているのか? と、問いかけました。
多くの問題は、内から探し、大法の教えから、異なる次元の回答を見つけました。人の観念は取り除かれ、正念が強まってきて、自分の変化に気づくことができます。その中で、私はなぜ修煉するのか? 私はなぜ執着を捨てるべきなのか? 私はなぜ執着するのか? 私は大法をどのように扱っているのか? これらは、私が自分にもっとも多く問いかけた問題です。最近私はこれらの問題について、新たなことを悟りました。
まず私はなぜ執着するのか? 世の中で辛いことや楽しいことを自らなめ尽くしたので、本能的に辛いことを排斥して、楽しい幸せに憧れます。名、利、情が満され、自分が欲しいものまたは欲しくないものが実現できた場合、私は多くの喜びと幸せを感じました! このような体験を求めたくて、ずっと幸せを味わいたく、思ったことが全て叶い、全てが自分の願い通りになることを望みました、これは、私が執着する原因、きっかけかもしれません、全てが私の希望通りになることを根本にしています。これが恐らく、生命が下に堕ちてきた原因で、生命が元の場所に戻れない原因かもしれません。
それでは、私はなぜ執着を捨てるべでしょうか? 現実は、自分が思うのは自分の一方的な望みだけで、執着は、謎に包まれたのこの世で、情の影響で、人の愚見と無知によって生まれたものです。特に、無神論や進化論、弱肉強食の思想により、人が死んでも捨てたくない唯一のものになったと理解しています。
簡単に言うと、執着しても何も変えることはできません、物事はあなたの執着により、生まれ、発展し、終わるのではありません。それでは、何を基準にすべきでしょうか? 大法は宇宙の異なる次元を切り開き、大法は異なる次元の命を造りました、万事万物は全て大法の判定の中で存在し、大法が基準であり、大法が全てを決めています。大法は、生命の所為に応じてそれに相応しい報いを与え、誰も逃げ出すことができず、自分への報いを受けます。生命が自分の運命を変えたい場合は、自分の思想と行為を変えて、大法の指導を基に思想と行為を変えてこそ、運命を変えることができます。師父は私達に、「本当に修煉して、はじめて人生の道が変わります」[1] と説かれました。
私は、今積極的に執着を捨てようとしています。もし、師父が私に1元をくださるなら、私はなぜ1元1角(人民元の単位)ではないのか、なぜ彼は5元を貰ったのかを考えません。もし、師父が私に苦しみを嘗める指示を出されるのであれば、なぜ自分が不幸なのかを聞きません。師父が按排してくださった生活の環境は、私の修煉の場所で、家、車、お金等は法が私に使わせるようにしただけです。これらを手に入れなければ、執着を捨てたと言えるでしょうか?
生命は自分の人生の道を按排する力や資格がなく、他の人の人生の道を按排する力や資格はなおさらありません。修煉の中で、私達は旧勢力の干渉と妨害があることを知っています、旧勢力は師父の勧告を聞かず、大法を基準にせず、大法を利用して自分たちの目的を達成しようと企てます。上の次元は下の次元を消滅して、自分たちを保全する目的を達成しようとしました。私は師父の弟子で、修煉の道を歩き始めた時から、古い宇宙や旧勢力の神の管轄範囲外でした。あなたが私に対して病業や自由を失ったり、または経済的な逼迫等のいろんな形式の迫害と干渉を、私は大法の要求に従い、認めず、正念正行で取り除きます!
私が法の指導通りにした時、法の力が出ることに気づきました、法の力があったので、どの執着心も全て薄くなりました。執着心が強いのは、その後ろにある各種の愛、怨み、情、仇がそれを強化したためです。今は、法の力が主導しているので、法を第一にし、師父と法を尊敬し、信じることが最終の唯一の考えになります。
生命が生まれた時は、法は異なる次元に定めた基準を満たしていたと思います。その時はきっと大法を第一にし、その時の言行(げんこう)はきっと大法の基準に従っていたと思います。その時、法は心の中では比べるものがないほど高かったと信じます。私は、その生命はきっと純粋、善良で、きれいだったと信じます。いつのまにか幾歳月、何度もの転生輪廻が経過し、何度も罪を犯し、どれぐらいの業を作ったのか知らず、生命は法からだんだん遠さがるようになりました。偉大なる師父が再び大法を各次元に広げてくださり、生命は救われる希望が現れました。師父、弟子は戻ってきました。大法は再び心の中に生きていて、もう大法を失うことはありません、自分の汚染された全てを取り除き、美しさと純潔に戻ってこそ、師父と呼ぶ資格があると感じます。
なぜ執着を捨てるのでしょうか? どの執着も大法を第一位にしていない現われで、全ては利己的で、法と張り合おうとする現われ、全ては法を尊敬しない現われで、邪悪に利用され、かれらの目的を達成するための言い訳になります。法の前で、私は本分を果たして、自分の身の程をわきまえて生き、高望みせず、法に従い、生命の本分を尽くしてこそ、自分は大法を汚さないと感じています。
自分に対して、自分の心の中で、大法をどのような扱いにしているのでしょうか? 大法を利用して、人間の心(例えば、健康、他の人より強い等の心)を満たしている手段にしていないでしょうか? 法に神聖な地位を与えているでしょうか? 等を問いかけてみては如何でしょうか。大法が心の中で一体どれぐらいの重みがあるのか自分に問いかけてみましょう。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』