文/中国の大法弟子 覚醒
【明慧日本2018年8月3日】10歳の頃から私は不眠症を患い、長い時間眠れず、ひどい神経衰弱とさまざまな疾患を招いてしまい、数十年の間、この不眠症に苛(さいな)まれる中で生きた心地がしませんでした。いくら考えても、納得いく理由が見当たらなかった私は天を怨み、なぜ理由もなしに私にこのような大きな苦痛を与えるのかと問いかけていました。
大法を修煉して間もなく、私のほとんどの病気は消えましたが、不眠症だけが少し好転しましたが、なかなか根治は見られませんでした。私は内に向けて探し、静かに自分の思惟を観察すると、自分の脳が1秒も休まずに考えていることに気づいたのです。その考えを止めようとしても止めることができず、まるで海がひっくり返されているように、24時間動き続けているのです。これでは失眠にならず、変な夢を見ずにいられることがありえるでしょうか? 表面の原因は取りあえず見つけました。それは「心が静かでない」からです。
なぜ「心が静かではない」のでしょうか? やはり法に照らし合わせながら探さなければなりません。師父はこのようにおっしゃっています。「常人は簡単に入静できますか? できるはずがありません。根基がよっぽどいい人を除いてはできないのです。つまり、入静できない根本的な原因は、方法にあるわけではありません。何か奥の手があるわけではなく、その人の考えや心が清浄でないからにほかなりません。常人社会の中で、人と人とのトラブル、個人の利益や七情六欲、さまざまな欲望への執着のために、人と争ったり闘ったりする、こういうことを捨てられなければ、こういうことに対して淡泊になれなければ、入静しようと思うなど、とんでもないことです。『そんなことは信じない。わたしはあれこれ考えたりせずに、入静しなければならない』と、練功する時に自分に言い聞かす人がいますが、そう言い終わらないうちに、またもやあれこれ湧いてくるのです。心が清浄でないので、入静できないのです」[1]
やはり、この頑固な失眠症は普通の病気ではありません。一体、この清らかではない心がどこから由来しているのでしょうか? 絶えず心性を高め、次元が向上してはじめてそれを解決することができます。「心が清らかではない」から、「心が静かにならない」のです。
師父は私たちにこのように教えられています。
「ある種の観念が形成されると、人の一生を支配し、その人の考え、ないしその人の喜怒哀楽を左右します。これは後天的に形成されたものです。時間が経つにつれ、この観念は人の思想に溶け込み、本当の自分の脳に溶け込み、人間の性格を形成してしまいます。
形成された観念は人間の一生を阻害し制御します。人間の観念は往々にして利己的であるか、または更に良くないものなので、また思想業力も形成され、人間はこうして業力に制御されてしまいます。人間は主元神に支配されているため、主元神が麻痺して観念に取って代わられたら、その人は無条件に降参してしまったことになり、生命はこれらのものに左右されてしまいます」[2]
これらの法理を学んでから私は以下のことが分かりました。「失眠症」は常人が認識している病気ではありません。「清らかではない心」によって引き起こされた失眠は、私が後天的に形成されたよくない観念、執着、思想業力に左右され、昼夜問わず精力が消耗され、苦痛がもたらされた表面的な現象なのです。実は、頑固な失眠は私が修煉過程で乗り越えるべき心性の関だと悟りました。
修煉に専念する中で執着がますます少なくなり、心もますます静かになり、以前のような一刻も休まない考えも少なくなって、いつの間に睡眠の質が良くなりました。数十年が経った今、再び少年時代のあの甘い熟睡を体験しました!
失眠という頑固な魔を解体した経験は、修煉の道のりにおける小さな間奏曲に過ぎません。私たちの修煉の目的は自分を昇華させ、衆生を救い、法を正す師に手伝い、師に従って家に帰ることです。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
[2] 李洪志師父の著作:『轉法輪(卷二)』