私の修煉の三つの段階
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明慧日本2017年11月12日】

 尊敬する同修のみなさん、

 私はベネズエラから来て、ミシサガ市で6年間生活しているダニエル・リオスです。

 今日交流したい内容は大法弟子として、私が学び体験した一部の最も重要なことです。その中でいかに多くの執着心を見つけ、立ち向かったか、また修煉過程での法に対する私の一部の理解も含まれています。

 私の修煉過程は三つの段階に分けられます。

 第一段階は2007年から2011年までの間です。当時私はベネズエラで修煉を始め、それからウルグアイという小国に引越しました。ウルグアイで私は1人で修煉しましたが、他の国からの同修の支持を受け、同修らは私に常に学法し、みなと連絡を取るように励ましてくれました。

 第二段階は2011年から2014年までです。その間、私はカナダに移住し、ミシサガ煉功点で煉功し、現地での真相伝えの活動に参加しました。

 第三段階は2015年から現在までです。この段階で私はずっと英語大紀元新聞社のカナダ版のためにフルタイムで働きました。

 これから上記の三つの段階での修煉体験や現在の修煉状況についてシェアします。

 一、法を得る

 私がはじめて法輪大法を耳にしたのは2005年でした。その年、私は妻と一緒に当時ニューヨークに住んでいる妻の両親に会いに行きました。

 当時、ひとりの法輪功学習者がチャイナタウンで私と妻に、法輪功が迫害されている真相を伝えてくれました。私が覚えているのはその学習者が私に1部のチラシと1枚の真相DVDを渡してくれたことです。どんな功法かについて私はあまり多く覚えていません。しかしこの迫害は真実であり、何千何万に上る人が迫害を受けており、しかもこの迫害は完全に邪悪であり、人間性などまったくなく、邪悪な人が仕出かしたことだということを知っていました。当時私は「こんなことがどうして発生しうるのか? 人々がただ座禅し、煉功するだけで、どうして拷問され、虐待されるのか?」と言いました。私は本当に非常に心を痛めました。

 旅が終わり、ベネズエラに戻ってきましたが、それから再びこの功法について耳にすることはありませんでした。2007年の末、ひとりの友人が私にこの功法を紹介して、ベネズエラの首都・カラカスにある煉功点に参加することを勧めてくれました。当時私はちょうど強烈な好奇心でいっぱいでした。多分私が当時厳しい魔難に遭っていて、人生のなかで超自然の問題について答えを求めようとしていたからかもしれません。

 私は五式の功法を学び、はじめて速いスピードで『轉法輪』を閲読しました。はじめて『轉法輪』を閲読する時から、私はこれがちょうど私が探しているものだと感じました。この書籍ははっきりと、論理性をもって書かれていました。私に修煉を無理強いする人はなく、学習者はみな喜んで功法に対する自分の理解や、精神面での認識をシェアしてくれました。私はこれらが非常に好きでした。なぜなら私からみると自分は霊性があるが、宗教には熱心でない人間だったからです。

 数カ月後、つまり2008年11月、私は結婚し、南アメリカのもう一つの国、ウルグアイに引っ越しました。そこには正式な集団的修煉環境がありませんでした。

 しかし、私はベネズエラを離れる前に修煉に精進していたため、ウルグアイから非常に近いアルゼンチンの法輪功学習者に連絡を取りました。彼らはネット上での学法プラットフォームに私を招いてくれました。こうして、定期的に彼らと数年間学法しました。

 この段階での主な心得は下記になります。

 学法は私を真に、速く向上させてくれました。なぜなら学法は修煉の基礎であるからです。法を読む時、最初に修煉とはなにかを大まかに理解できました。更に重要なのは学法の内容を理解し、法理を実際の生活のなかで応用することができたことです。

 私は生活のなかで、自分が間違っている多くの行動、及び私が修めるべき執着心に気づきました。例えば、色欲の心、面子を重んじる心、傲慢な心、安逸心、利益の心、人に認めてもらいたい心などなどの人心でした。

 まるで隊列のように、これらの執着心は一つずつ現れてきました。これらの執着心は非常に良くないと私は知っていました。それに気付いたことは実際よいことでした。それらは私の思想のなかに根を下ろしていましたが、私は最終的にこれらの執着心を修めなければならないことを知っていました。

 私は「最終的に」と言いました。なぜなら、最初私はこれらの執着心を本当に捨てたいと思っていなかったからです。しかし、私はこれらの執着心は間違っていると感じ始めました。私たちの功法のなかの重要な一つ要素である、我慢して譲ることをしたくなかったのです。しかし、少なくとも私は人生のなかで初めてこれらの執着心は完全に間違っている、私はそれらを修めるべきだと認識できました。

 これこそ修煉の始まりでした。私は自分の執着を意識し、それに立ち向かい、それから少しずつ向上できました。

 私はこの段階で、私をそれほど忍耐強くしてくださった師父に感謝します。私を導いてこの修煉過程を歩ませてくださった師父に感謝します。またベネズエラ、スペイン、ウルグアイの学習者に感謝します。彼らは常に学法し、煉功するように励ましてくれました。

 第一段階における、二つ目の心得

 インターネットを通して、一緒に学法していたグループでは『轉法輪』以外の説法もよく読んでいました。これらの説法には迫害発生前後のすべての説法が含まれていました。私はこれらの説法から多くのものを学びました。しかし、これらの説法が私の修煉に与えた主な影響は、私に自信、信念、法に対する深い理解、修煉とはなにか、及び私達がここにきたのは本当に修煉するため、法を得るためであるなどなどでした。これらの説法は改めて私に修煉するためにここに来たことを教えてくれました。

 師父は修煉のなか必要なすべては『轉法輪』のなかにあるとおっしゃいました。確かにそうです。師父は「毎回の法会で師父も『轉法輪』を解説しており」[1]と説かれました。ですから、私にとって、ほかの説法と『轉法輪』は同様に重要であり、私に修煉において勇猛邁進するようアドバイスしてくれました。

 第二部 カナダに移住する

 2011年5月、私はカナダに移住し、ミシサガ煉功点での煉功に参加し始めました。

 以前私は煉功点での煉功や、集団学法の重要性に関する師父の説法を学んだことがあります。私は、顔合わせの集団学法はインターネット上での集団学法より優れているとわかっていました。しかも、私自身もひとりの大法弟子として、修煉はただ私の個人修煉ではなく、師父を助けて真相をはっきり伝え、世の人々を救い済度する部分も含まれると理解し始めました。そして、カナダに来てから、すぐ神韻の宣伝活動に参加し、チケット販売や、宣伝ブースの設置、及びあらゆる活動に参加しました。一言で言うと、私は自分の修煉が引き続き向上しており、私の修煉状態は以前と較べて随分良くなったと感じましたが、依然として師父が『轉法輪』のなかではっきりと説かれた一部の典型的な執着が残っていました。ここで色欲の心と飲酒を戒めたことについて交流します。

 飲酒について、この問題は私にとって少し対応しづらいというしかありません。多分自分が飲酒文化の背景がある国からきたからだと思いますが、実際そこには酒を飲まなければならない多くの社会的プレッシャーがありました。

 私は自分に飲酒をやめようと説得しました。私が言いたいのは、私は99%よくできましたが、時には試練を乗り越えられず、少し飲んだりしました。

 うちに向けて探すと、私が酒を飲むのは実際飲酒に執着するのではなく、情に執着していることだと認識できました。なぜなら飲酒は家庭でお祝いをするときや、みなが集まった時の自然な状態であり、例えばクリスマス(我が家はカトリック教を信奉しています)や、サンクスギビングデーになると私はやはり少し酒を飲みます。

 最近、私はすでに自分を調整し、よくやっています。しかし、まだこの執着の存在を感じています。私は自分にアラートを鳴らし、次回の試練では乗り越えられるようにしたいです。

 もう一つの執着心は色欲の心です。時には私も間違いを起こします。私は修煉する前より随分よくなりましたが、真に修める弟子の基準に比べるとまだ大きな差があります。

 私は色欲の方面で間違いを起こす主な原因は学法と煉功が足りず、また成人向けの内容が至る所で見られるからだと思います。特に、ネット上においてです。色欲の関を乗り越えられない時、もし私がうちに向けてさがすと、自分が注意していない時は非常に乗り越えられないことに気づきます。ですから、私は常に自分の考えに注意し、なるべく法理に基いて問題をみるようにしています。

 毎度内に向けて探し、自分の修煉過程を振り返ると、特に関を乗り越えられない時、自分が修煉において精進していないことによるものだと気づきます。私の体験からみると、修煉において精進しないことと色欲を含めて多くの関を乗り越えられないことが深く絡んでいます。ですから、この点について認識しなければなりません。法理に基づかなければ関を容易に乗り越えることはできません。

 例えば、一度私は色欲の試練を乗り越えられませんでした。そして、私は内に向けて探し、当時の状況を振り返ってみました。私は学法を始め、『轉法輪』の第二講を学びました。

 第二講の一段落の法を読むと、表面からみると色欲と無関係のようですが、私には特別な理解がありました。第二講のなかで、師父は修煉過程で現れる可能性のある、一部の最もよく見られる特異功能について説かれました。宿命通功能についての一節のなかで、師父は「われわれは物質は不滅だと言ってはいないでしょうか? ある特定の空間では人が何かをすれば、たとえ手の一振りであっても、とにかく何かをしたらみな物質的に存在し、影像と信息が残ります。 他の空間ではそれが不滅で、永遠に残りますので、功能のある人は過去に存在した光景を見ればすぐ分かります」[2]と説かれました。私が思うには、もし私の理解が正しければ、これは私がやったすべてのことが記録され、永遠にあの空間に残されるという意味です。それは師父とほかの神に見え、ひいては将来にも見えます。ですから、毎度関を乗り越える時、どうして軽率でいられるでしょうか。それから、私は本当にこの問題に注意しました。私は自分がひとりの真に修める弟子の基準に到達できることを望んでいます。

 これはすべての執着心のなかで私が力をいれて克服した一つの執着心です。

 第三部 英語大紀元に参加する

 2014年の年末、私はトロントの英語大紀元新聞社に入社し、働きはじめました。

 大紀元新聞社に入る前、私がこのプロジェクトのために初めて試したのはLa Gran Epoca、つまり大紀元スペイン語のウェブサイトのために、文章を英語からスペイン語に翻訳することでした。当時私はよくできておらず、自分の思いを実現できないまま、数カ月後、そこを離れました。

 離れた原因は多分私の「人を救う」ことに対する理解に限りがあったからだと思います。私は師父の教えにしたがって、真相を伝えるプロジェクトを試みましたが、「人を救う」という考え方は私にとって非常に抽象的なもので、今になっても少し抽象的です。そうであっても、私はやはり師父と大法を信じ、継続してほかのいかなることをもやりました。私は新聞社の現地バージョンを作成する仕事も試みました。最終的に一部のメンバーと話し合い、最終的にフルタイムの仕事をもらいました。

 私は非常に嬉しかったのです。私は本当に大紀元のために仕事をしたいのです。しかし、雇用されてからすぐ現れた大きな試練は利益の心でした。

 この重要な段階において、メディアや、真相を伝えるプロジェクトの中での仕事は修煉者にとって、非常に貴重な修煉であり、師父を助けて法を正す機会です。修煉の角度からみると、いかなる他の常人の機会もこれに比べることはできません。

 しかしメディアプロジェクトで仕事をすることは常人の仕事をするより低い給料を意味します。多くの原因がありますが、一つの原因は多分この業界での複雑性、及び私達のプロジェクトの発展状態により、資金が常に非常に厳しく、同時に私達の修煉問題にも影響があり、私達が資金の限られた状況下でも堅持し、続けられるかを見ていると思います。

 ですから、ある程度専門のバックグラウンドがあり、仕事においてある程度成績を取得した後、自分の希望と専門領域での目標があり、しかも非常に優秀でありながら、修煉しない配偶者と一緒に生活している私にとって、私の専門背景、希望と生活基準からみると、私の生活上の習慣を満足させることができないことは私が求めることではありませんでした。

 ですから、その間、お金のことはずっと私の問題でした。この問題は時には私の原動力に影響し、私は毎度この問題を考えました。このことは私とプロジェクトにも関連しました。これは私の修煉状態、私がよくやったか否か、及び修煉者として、いかに常人生活を過ごし、いかに対応し、バランスを取るかなどの問題でした。私の理解では、私には自分の時間をメディアプロジェクトのために捧げるよう条件を整える責任があることでした。ですから、私は自分が間違っていると感じた時、内に向けて探し、当時の状況を詳しくみて、それに応じて自分を調整しました。この状況に対して私の主な悟りは、もし私が本当に要求どおりに修煉できれば、私はお金のことを心配することはなく、師父は私を守り、師父は私に修煉の道を按排してくださるはずでした。

 例えば、私が雇用契約書を受け取り、大紀元に加入した時、家の経済状況はあまりよくありませんでした。私たちはちょうどビジネスに失敗し、家でやすみながら、改めて労働市場に入ろうとする過渡段階でした。家庭の主な収入の働き手として、私は自ずとお金の問題を心配しました。私は充分なお金がないこと、妻は私がより良い常人の仕事を探さないとことに文句を言わないかなどを心配していました。私達はちょうど過渡段階で、形勢は非常に複雑で、妻も専門にあう仕事を探していました。

 私たちは依然として各種の費用を支払い、財務予算も非常に厳しくなりました。私はこの状態がどのくらい続けられるかわかりませんでした。しかし、そうであっても、私はやはり更に精進して修煉し始めました。数週間後、奇跡が現れました。

 妻はよい常人の専門職を見つけました。私が移民者で、しかもコミュニケーション能力を向上させている時にこのような仕事をみつけることは非常に難しいことです。しかし、彼女は見つけました。それは入門レベルの仕事でしたが、給料と福祉があり、私たちはより良く私達の予算のバランスを取ることができました。こうして私たちの生活は安定し、妻も私がメディアで仕事をすることを支持してくれました。過去の2年半の間、私たちはずっと安定した状態を保っています。

 本当にこの過程で私を助けてくださった師父に心より感謝申し上げます。

 また妻にも感謝します。彼女は修煉していませんが、私のメディアでの仕事を支持してくれ、私に常人の仕事を探すことを強いませんでした。

 ここまでたどり着くのは容易いことではありません。しかし、現在私はすでに適切に物事を処理することができました。立ち向かった試練は私達を向上させ、私達の基準を高めるためにやってきたと認識しています。私はほかに常人の物事や、常人の欲望をも対処しています。例えば、自分を実証する、成功を追い求める、面子の心、情などです。しかし、これらについて今後また他の機会に討論したいと思います。その段階ではまたほかに美妙な体験などあると思いますので、将来また交流したいです。

 しかし、私の交流を終わらせる前に、二つの基本的な法に対する理解をシェアしたいと思います。この二つの基本的な理解があったため、私は法に対してよりよく理解でき、そして修煉に専念するようになりました。

 師父は『轉法輪』のなかで煉功しても功が伸びない二つの原因について説かれました。私たちはすでに高次元へ修煉できる法を得ました。心性の修煉について言えば、『轉法輪』の第一講のなかで、師父はもっぱら心性の修煉について提言されました。「人の心性の各方面を全面的に向上させて、はじめて本当に上昇することができます。これが功力を伸ばす肝心な要素の一つです」[2]。師父の使われた「各方面」に注意してください。「私が向上したい方面」でありません。ですから、私の理解では私たちは私達の心性をすべての方面で向上させなければならず、つまり生活のなかのすべての方面で自分に厳しく要求しなければなりません。

 もう一つの悟りは修煉の本当の意義と「圓満成就」の内包に関連します。師父は「修煉は自分に修煉したい願望があり、圓満成就したい願望を持ち、同時に修煉の行動もあってはじめて、修煉となるのです」[3]と説かれました。これらのお言葉は私に対して非常に深く影響を与えました。私は本当に圓満成就と圓満成就の内包について意識できたでしょうか。私たちは本当に修煉する行動があったでしょうか。或いは私たちはただ法を読み、煉功していますが、真の修煉者のあるべき振る舞いをしたでしょうか。

 修煉者として、私は時時刻刻師父の説かれたこの段落のお話を覚えるように努力し、三つのことを行なっています。同時に法に同化し、法が私の生活のなかに溶け込むようにしています。これは私達が圓満成就に達し、私達の使命を全うする過程を保証してくれます。

 師父に感謝致します。同修のみなさんに感謝致します。

 以上の交流で法理に則っていないところがあれば、慈悲なご指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『二〇一五年米国西部法会での説法』
 [2] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
 [3] 李洪志師父の著作:『オーストラリア法会での説法』

 (2017年カナダ法会での発表文章)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/7/28/351749.html)
 
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