トラブルの中で自分を修める
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2017年11月12日】大法弟子は常人の中で生活しています。生活の中で発生する多くのことは、私達が大法に照らして自分の不足を見つけ出し、執着心を修めるように鏡として存在します。

 常人、あるいは修煉者に接触する際、様々なことに出会います。多くの場合、私たちはトラブルの中で、誰が正しいか、誰が間違っているかをみていますが、実際には相手が正しいか、間違っているかをみるべきではなく、自分に修めるべき心があるからトラブルが発生したのです。もし自分に修めるべき心がなければ、そのようなことは現れません。私達の修煉の道のりに偶然なことはありません。

 例えば、あなたは同修が口を修めないことを目にします。あなたは自分に向けて探すべきです。自分も同様に口を修めていないのではないかと探すべきです。時には自分は相手の間違っている方面で大変気を付けており、口を修めていると思うかもしれません。実際、あなたが口を修めていないのは相手が口を修めていない方面でなく、ほかの方面かもしれません。どの方面でしょうか。修煉の他の方面において、探してみてください。必ずあなたが口を修めるべきところがあり、現れる形式は異なりますが、同じ執着心なのです。一度、一人の同修が安全面で口を修めていないことに気づきました。あなたはどうしてこうなのか、言うことも法に基いていない、と思いました。私は自分が正しい、その同修が間違っている、口を修めていないと思いました。後で気付きましたが、私が口を修めないのは安全面ではなく、自分が気に入らない、自分の観念に符合しない人、或いは事について、口を修めていませんでした。私は自分も修煉者であることを忘れていて、実際私が言ったことは同修よりも法に基いていませんでした。その同修は私にパフォーマンスをして見せてくれており、私にうちに向けて探す機会を与えてくれていたのでした。

 また一度、私は同修の車に便乗しました。車の中にいた同修は「自分はいかに他人のために仕事をし、どんな仕事でもすべて成し遂げられる」と言いました。それを聞いた私の最初の反応は聞きたくない、その同修が気に入らないということでした。その後、我に返ってみると、気に入らないのは嫉妬心で、私は嫉妬心を修めるべきでした。

 しばらくして考えると、その同修は私に顕示心を見せてくれていたのです。しかし、私は自分には顕示心がないと思っていました。私の顕示心はどの方面に現れるでしょうか。ふと最近発生したことを思い出しました。このことが発生する1日前、私は同修と話し合いました。その同修はご主人のためこれだけのお金を費やして鞄を買ったと言いました。私は自然に、「私の母は私にこれだけのお金をくれました」と言いました。私が口にしたのはほとんど相手の言う金額に相当するものでした。私の潜在意識に自分の家族を顕示する心がありました。なぜならその同修の母がその同修にそれほど多くのお金を出せないことを私は知っていたからです。また、言葉にしても、面子にしても、私はその同修と似ていて、言葉の中に闘争心が隠されていました。師父が説かれたように「本人にとってそれはもうごく当たり前のことで、無意識にやっているかも知れません。彼の潜在意識に、ほかならぬ顕示心理というのがあるのです」[1]でした。

 最近少しずつ内に向けて探すことができるようになりました。多くの場合、自然に言い出した言葉ですが、本当はすべて観念と自分のための考え方であることに気づき、少しずつ自分の言動を修正するようにしています。

 多くの場合、誰かが言った言葉、やったこと、或いはあなたの身に起きていないことであっても、あなたに聞こえ、見えた時、心地悪く感じたら、あなたは何が原因で気分が悪くなったか、あなたに何の心があるか探すべきです。師父は「しかし、常人の表面のことを重く見ていれば、それは執着であり、人心です」[2]と、説かれました。もしあなたが一人の神であれば、常人のなかの何かに影響されるでしょうか。あなたに影響したのは何の心でしょうか。こうして探すとたくさんの心が見つかります。毎日発生することにおいて、自分の言動と動いた念が修煉者の基準を満たしているか特に注意すべきです。

 場合によっては発生したことが自分の心に触れたことを知っていても、その場で具体的に何の心か見つからなかったとしても、自分が間違ったことを知っています。具体的な執着心が見つからなくても、私は自分の空間をきれいにする口訣を念じます。「意念の中で自分の思想の中の良くない念、業力と良くない観念、或いは外来の邪魔を根絶します」[3]。あなたが内に向かって探しさえすれば、師父はヒントを与えてくださいます。一度、同修との心性のトラブルの中、私はたくさんの心を見つけ出しました。面子の心、気にする心、口を修める等、しかしずっと根本的な問題が見つかっていない気がしました。後になって探すことをやめ、学法しました。『論語』を読み終えた時、私は分かりました。私の最大の問題は善の心がないことでした。私は真・善・忍を修めていますが、私は善の心を修めておらず、これは本当に大問題でした。今後必ず注意し、この方面でしっかり修めなければなりません。

 あなたが物事の正誤のなかに陥らず、常にこれらの人、或いは出来事をあなたに見せたのが何かを考えれば、あなたは恨む心が生じ難くなります。なぜならあなたの物事に対する観念に変化が発生したからです。あなたは「彼が演じているこれらのことは私に何を見せているのか。これらのことが私の身に起きたのは、私に何を悟らせているのか」と考えましょう。あなたは自分の名、利、情が損なわれていると思わないので、どうして恨む心が生じるでしょうか。彼らがこれほど苦労してあなたにパフォーマンスをしてくれているから、しっかり探してみようと思います。見つけたら更によいことで、例えすぐ見つからなくても焦ることなく、心の中でこの方面で問題はないかと考えていれば、次の瞬間に分かるかもしれません。

 修煉の中で、多くのよくできてないところがあり、非常に恥ずかしく思います。しかし最近悟った以上の体験について同修とシェアしたいです。不適切なところについては、慈悲なるご指摘をお願いします。

 師父のご恩に感謝申し上げます。同修に合掌します。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪
 [2] 李洪志師父の経文:『更なる精進を』
 [3] 李洪志師父の著作:『導航』「二〇〇一年カナダ法会での説法」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/10/30/356040.html)
 
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