時間を大切にし 利己的な本性を修める
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文/イタリアの大法弟子

 明慧日本2018年10月11日】私は同修の皆さんと、時間に対する執着からきた各層の利己的な本性を認識して修めた経験を共有したいと思います。この交流文の作成は、自分の過去1年間の修煉の過程を振り返るとともに、過去の数年間の中で、しっかり放下できなかった関を深く堀下げて、新しい理解を得ることができるとても大事なチャンスを与えてくださいました。

 真の修煉者になる

 私が常人の時、最大の恐怖は「死」でした。数年間、私はこの観念でとても悲観的になりました。地元のイタリアの大学に進学後、社会と経済を勉強しました。社会には多くの問題が存在していることに気づき、だんだん不安になり性格も次第に悪くなりました。特に自分の周りの人達は社会の生存環境がどれぐらい破壊されているかを何も意識していないと感じました。

 一方私もそれらのことに、少しずつ無関心になっていきました。そして「余計なことを考えるのは止めよう、どうせ人間は死ぬのだから、最後は全てを失うのだから!」という思いでした。しかし、自分の恐怖感をコントロールすることが出来ませんでした。このことは私と家族、そして友人達の関係にも大きな影響を及ぼしました。それからは人をバカにしたり、対立的になりました。自分が他人よりも知識があるので、他人は私を理解できないと思い込みました。常に酒を飲むようになり、薬物にも手を出し始め、全てはますます悪化する一方でした。

 その頃、私の体にも異常が出始めました。特に膀胱炎は、トイレに行く度に耐えられない痛みを伴いました。その他にも、私が数年間抱えていた膝の痛みも悪化しました。これらは、私をもっと不安にさせ、気持ちを落ち込ませました。そこで私はこの環境から離れたくなり、ここにいる全ての人から遠く離れて、新しい生活を始めようと考えました。

 2006年、私は大法を得ました。その時、私は他国に住んでいました。法を得た後、全ては良くなりました。2日間で『轉法輪を読み終えた後、またもう1回読みたくなり、その感覚は今まで経験したことがなく、とても不思議に思いました。本の中の内容を全て理解できなかったのですが、それでもとても素晴らしいと感じました。

 数力月で、師父が発表された全ての説法を順番に読み終えました。その時の私は何も求めることもなく、知識への渇望だけで、常にもっと多く読みたいと思いました。その頃、私は仕事を辞めて世界の各地を旅行していたので、多くの時間がありました。その数力月間、殆どの時間は法を学んだり、法輪功の五式の功法をしました。徐々に私は師父が説かれた法や、心性の向上への要求を受け入れました。私の性格はずいぶん良くなり、他の人の話に耳を傾けることが出来るようになり、先走って自分の意見を述べることもしなくなりました。自分の未来への恐怖感も徐々に薄れていき、タバコとお酒も止めました。自分には大法があれば、全ては良くなると感じました。そして、長年私を苦しめた病気も消えました。両足を双盤で組めるようになり、以前の自分とは全く別人のように変わりました。法を得る前は、自転車に乗ることすら出来ませんでしたが、座禅で双盤ができたときはとても気持ちが良いものでした。

 三つのことをする

 大法弟子の責任と三つのことに関する師父の説法を読んだ時、新しい修煉の段階が始まったと感じました。師父の言われるように、私達は真相を伝えるべきだという要求を受け入れ始めた時、急いで何かをしないといけないと思いました。その時はまだ自分の利己的な本性が、時間への執着の中で暴露されるとは思ってもいませんでした。

 師父は、「皆さんは帰ってからも時間を無駄にせず、着実に修煉するよう切に希望します」[1] と説かれました。この法は今までにない衝撃を感じることができ、師父の無量の慈悲を感じました。私の理解では、師父は私達大法弟子が、正法の期間の限られた時間を有効に利用し、私達の先史の誓約を果たすことを期待されていると悟りました。私にこれを認識させると共に、修煉して向上するために、師父は多くのチャンスを与えてくださいました。また、私の行為が法に則っていない時でも、師父は私を諦めることなく導いてくださいました。師父に感謝いたします。そして、同修の皆さんも私の成長を見守ってもらい感謝します。

 師父の期待通りに、私達の時間を最大限に有効に利用できるのかと自分に問い掛けたことがあります。その時、まだ同修達が立ち上げた邪悪を暴露し、真相を正確に伝えるプロジェクトをあまり知らなかったのです。当時、最も有効な方法はチラシを配ることであり、配るのが多ければ多いほど良いと思っていました。

 私が最初に参加した真相を伝える活動は、通りがかりの人にチラシを配る活動でした。初めて、私は地元のチャイナタウンに行きました。そこは他の地域からの観光客で混んでいて、地元の中国人もいました。しばらくしてから、ある中国人が近づいて来て、私の手から一束のチラシを奪い取り切り裂いて、私の顔に投げつけ、黙って去って行きました。

 まるで、スローモーションビデオを見ているように感じました。唖然とした私は数秒間何も言葉が出ませんでした。その時、私の中に魔性が現れました。その人を追いかけて行きたい気持ちをやっと押さえました。良くない考えが私の頭に侵入してきました。「あなたはどうしてこんなことをするのか? 私はあなたを救うために来たのに、あなたはなぜ私にこんな態度をとったのか? 私があなたを殴ったら、あなたは私の話を聞くだろうか?」

 少し冷静になった時、もっと驚きました。何故そういう反応が私の中に表れたのかを考えました。自分の中に闘争心があったのではないかと感じました。同時に、私はあなたより何もかも知っている、だからあなたは私の話を聞くべきだという観念もありました。

 師父は、「善を修煉すれば、大いなる慈悲心が生まれます。慈悲心が生まれると、すべての衆生が苦しんでいるのを見て、衆生を済度しようとする願望を持つようになります」[1] と説かれました。

 私は大法弟子としてのあるべき慈悲心が現れず、衆生に真相を聞くチャンスを与えようとしませんでした。さらに、私は自分を見せびらかす心があり、他人が私の話を聞くことを望んでいました、何故ならば私は彼らより優秀だから、私はこういうことが出来ると思ったのです。その他、自分の中に隠れている考えを見つけました。それは、ある人がチラシを受け取ったら、効率よく別の人に早くチラシを渡してほしいという考えです。私は自分がやっている仕事の質を考えず、量だけを求め、なるべく早く自分の威徳を高めようとしていました。何故ならば、私は法を得るのが遅かったからです。

 現在、当時を振り返って見ると、私は時間に対する執着があると思います。自分が参加した一連の活動を振り返って見ると、集団活動や個人的な活動に関係なく、私が目先の一つの活動にのみ注意を払った時、あまり良い結果を得られませんでした。私はどのように活動するかを改善し、今後もっと良い効果を得ることを全く考えてもみませんでした。目先の数字のみを考え、長期的なことを考えない心理状態でした。

 師父は、「みな近道を通りたいからではありませんか? 目先の成功や利益を急いでいます。この考えは邪党が注いだ党文化です。何を行なってもしっかり行なうべきです。その過程で見ているのはあなたの心であり、成功そのものを見ているのではありません」[2]

 目先の利益のみを考えるのは、党文化の現れです。師父は既に私達に共産主義が全世界に影響を与えたと教えてくださいました。中国だけではないので、私も党文化が自分に対して影響があると認識し、取り除くべきでした。 

 長期的な考え方

 目先の成功や利益を急ぐ心理状態は、自我を主張する執着の現れで、私が必ず修めるべきであることを認識した後、この面の修煉を強化する自信を得ました。

 師父が私達のために、何度も時間を延長してくださり、衆生が真相を知るチャンスを与えてくださっていることを知っています。このことで、時間は自分達にとって一番大事な資源だと思いました。師父の私達への期待は、智慧をもって時間を有効的に使い、少しずつ良くなる効果を得ることです。この目標を達成するために、私達はお互いに協力し、一緒にもっと多くの衆生の目を引くプロジェクトを完成する必要があります。

 去年の夏、『精進要旨』の中の「時間との対話」の一文を学びました。

 「師:あなたが見たところでは、わたしの弟子にはまだ、どのような問題がありますか?

  神:あなたの弟子は二つの部分に分けられます。

  師:二つの部分とはどのようなものでしょう? 

  神:一部分はあなたの要求に基づいて法の中にあって精進できますが、この部分は比較的良いのです。一部分は人間のものを抱いて放さず、精進できていません。

  師:その通りです。わたしにも分かっています。」[3]

 これに対して、私の2点の感想があります。一つ目は時間で、師父の正法時期に積極的な役割を果たす神として、私達の立場になって、三つのことをしかっり行なえば、この段階がいつまで続くのかを心配する必要はありません。この点を悟ったことで、だいぶ心を放下することができました。

 二つ目の体験は、この経文から、師父が、大法弟子の協調と協力が必要な時、同じ認識を持つことが重要であることを教えてくださったと感じました。

 自分の修煉の状態により、「時間」が説かれた2種類の学習者の表現は私にもあると感じました。振り返って見ると、私は師父の学習者に対する最も基本的な要求にも達していないことに気づきました。

 例えば、ある時期、私は法を学ぶ時、心を静めることができませんでした。ニューヨークで、フルタイムでメディアの仕事をしていて、頭の中はずっと完成すべき仕事を考えていました。全ての仕事はまるで映画のストーリーのように、私の頭の中で循環的に現れ、止めることができませんでした。とても悩みました。私はこのような状態で法を学ぶのは、師父に対して失礼であり、時間を無駄にしているのだと認識していました。私達は、法を学ぶ過程で、自分を向上させるべきですが、他のことを考えていると、法は頭の中に入らず、時間を無駄にするだけです。

 これは悪循環になり、私が心配すれば心配するほど、状況は悪くなる一方です。主な原因は私が内から探さなかったからです。後になって、法を学ぶ時に頭に入ってくる思想をよく考えてみました。最初は、何の問題も見つかりませんでした。メディアで一部分の新しい仕事を担うことになり、私は積極的にこれらの仕事に向き合っています。「私が仕事をしっかり行ないたいのは、真相を伝えて良い効果を得るためです」と自分に言い聞かせました。

 その後、法を暗唱する時、「生命が大法から背離すれば、それは本当の堕落となります。世の人は、大法と一致することができれば本当の良い人であり」[4]という言葉が目に入りました。

 自分の仕事を完成させたいという心は、実は自分の利己的な考えを隠すための言い訳です。私が仕事を早く終わらせたいのは、実はもっと面白い事をする時間、例えばショッピングの時間や休憩時間を増やすためなのです。

 そうです、私達が社会でどのような仕事をしても、仕事はしっかりと行なう必要があります。特に、大法弟子が立ち上げた真相を伝えるプロジェクトでフルタイムで働く場合、私達は仕事をきちんとすべきです。しかし私は断片的に法を理解し、またそれを言い訳にして、修煉者として最も基本的な事である、求めず法を学び、終始法に同化するという要求を見落としていました。これは私達が現在の変異した社会から抜け出し、正法時期の使命を果たすための根本的なことです。

 師父は、「良いことを考えることができないにしても、悪いことは考えてはなりません。いちばん良いのは、何も考えないことです」[1] と説かれました

 私の経験は私達が責任や任務に立ち向かった時、または一つのプロジェクトを完成する過程の中、マイナス的な考えは、表面的なことがらに影響するため、避けるべきです。ポジティブな考えをもつこは良いことかも知れませんが、私達は人の心と執着は認識できず、一番良いのは、何も考えず、どんなことに遭っても、動揺せず、自分の知恵で仕事を完成させ、どの人心も混ぜてはいけないのです。

 真の考え方

 時間に執着する私の各層の心を取り除くことができる本当の助けになったのは、1年6力月前に神韻交響楽団の演奏を鑑賞した後です。

 その期間中、修煉は私にとってとても難しかったのです。約10日間、私は頻繁に同修とのコミュニケーションミスで矛盾が生じました。私は心の中で、彼らが一番簡単なことさえ理解できないと不満を感じました。その他、ある非常に重要な真相を伝えるプロジェクトが突然中止されました。それは、私にとってショックが結構大きく、これは一番理知的ではない決定だと感じました。

 私は鈍感になり、頭の中には様々な考えが現れてきました。神韻交響楽団のコンサートすら聞きたくありませんでした。私は座り、目を閉じて、師父に私に智慧をくださるように助けをお願いしました。

 コンサートが終わった後、私は中止されたプロジェクトに参加した同修に会いました。私の最初の一念は、彼を慰めるべきだと思い、彼はきっと自分が色々努力したのに結果が出ていないことを悲しんでいると確信していましたが、彼は逆に私を励ましてくれたのです。そこで私のあまり良くない修煉状態があきらかになりました。「私は、自分のできる範囲で最大の努力を果たしました。私もとてもつらいのですが、自分を悲しみに陥らせたくはないのです」という彼の話は、私に時間を無駄にせず、前に進み、自分のするべきことをすべきだと気づかせてくれました。

 その夜、私はずっと眠れませんでした。私は横になって、暗闇を見つめ続けて、頭の中には多くの考えが浮かんできました。私はますます不安になり、このままでは翌日の退社後は疲れ果ててしまうのではないかと心配でした。その後、不思議なことが起きました。私はまるで異なる次元に連れられて行き、巨大な映画館の最前列の座席に座り、スクリーンを見つめていました。周囲は全て暗闇に包まれていました。私は動けず、思考力も失ったと感じました。身体を動かそうとしましたが、何もできませんでした。これは不思議な経験でした。映画の一部分で、同時に映画を見ているようで、とても楽しい感覚でした。

 次に、柔らかいレンガが周りに浮かんでいるのを見つけました。たぶん上から下に向かって移動していたと思います(はっきり覚えていません)。この一幕は、私をリラックスさせてくれました。そして、驚いたのは、それらの柔らかいレンガはそれぞれ異なる考え方で、異なるところから来て、全て私の頭の中に入ろうとしました。

 この光景をみて自分はどのようにしたいのか分からないのですが、どれが自分の真の考えで、どれが主元神からの考えかを識別することができました。私の周囲に浮かんでいますが、自分の考えではない状況を見て、不快感が出始めました。そして、全てはそこで終わりました。その時、既に早朝でした。起きて、すぐ煉功に向かって走りました。そして煉功する時、ある考えが私の頭の中に打ち込まれました。私は自分に、「それらの考えを扱うのは時間の無駄ではないか? 私は彼らを受け入れ続けるべきではない。彼らが私に近づいてくると、すぐ彼らを消滅すべきだ!」と言い聞かせました。

 その経緯から、私は自分の真の考えではないことを識別し、拒むことを学びました。同時に、私は仕事の環境の中で、もっと専門的になりました。最終の目標は、時間を無駄にしないことです。

 向上したい願望

 師父は私たちに何回も、大法弟子が営んでいるメディアは必ず成功した常人の会社を模範にし、学ぶべきだと教えてくださいました。私は自分の心に、成功した人物はどのように彼らの時間と毎日の日程を管理しているのかを考えました。

 そのころ、いろんなプロジェクトに参加したので、私はだんだんと忙しくなりました。でも、自分のした仕事は完璧ではないと感じ、時間を無駄にしていると感じました。後から、関連する文章を読み、成功した人々にはいろんな共通点があり、その中の一つは、彼らは優先度と緊急性に従い、タスクを配分しました、重要性が低く、もっと大事な仕事を妨げるタスクについて、優先度を下しました。

 私は、自分が常人や同修の要求を拒まず、当初の状況を考慮しないことが問題だと気づきました。彼らを喜ばせて、彼らが私は良い人、良い修煉者だと感じさせたかったのです。これは、目先の成功や利益を急いでいる心の反映で、これらが自分の他の仕事への長期的な影響があるか考慮しませんでした。これは、当初チラシを配る時との考え方と似ていました。多くすれば、救われる人も多くなり、私の徳も多く蓄積されると思いました。

 これは私の数年間の修煉の主な欠点の一つだと思います。旧勢力はこれを言い訳にして、私の頭にマイナスの考え方を押し込み、私が三つのことをすることを妨害し、冷静を保ちながら法を学ぶことを妨害します。

 私は自分の最大の力を尽くし、この面で冷静を保ち、人を救いたい心を保ちたいと思いました。後から、私は成功した常人はテクニックを利用して、自分たちの時間を管理していることに気づきました。私は関連する本を読み、紹介された方法を試してみましたが、何の変化も起きませんでした。そのため私は困惑しました。

 その後、私は神韻を紹介するビデオを見て、突然ひらめきました。神韻芸術団の団員たちは、自分たちの経験を紹介する時、彼らも必要に応じて技能を磨いていますが、一番大事なのはやはりテクニックとは別の心性が基本だと話しました。常人は、テクニックを使って、自分たちのダンスの技能や歌唱力を向上させることができます。しかし、神韻芸術団の団員の人を救う巨大な力は、団員たちの心の中の衆生を救いたいという願望から来ています。

 私は、これは師父が私を励ましてくださっていると感じました、またメディアでの仕事中、正念を保つことを教えてくださっているのだと思いました。同修の話に耳を傾けることを忘れず、同修と協力することを意識します。このようにしてこそ、私は正法の中で智慧をもって自分の時間を活用することができます。

 私は師父の「辯少なしに」[5]の詩を交流文の最後にして、私と同僚(同修)間の関係を改善したいと思います。

 「強辯に遇えば争論す勿れ

 内に向けて因を求むは修煉

 釈明しようとすればするほど心重し

 坦懐にて執着無ければ知見出づ」

 師父に感謝します!

 同修に感謝します!

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
 [2] 李洪志師父の経文:『二〇一六年ニューヨーク法会での説法』
 [3] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「時間との対話」
 [4] 李洪志師父の著作:『轉法輪』「論語」
 [5] 李洪志師父の詩:『洪吟三』「辯少なしに」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2018/8/6/371790.html)
 
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