「指摘されたくない心」を放下する
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2019年2月27日】今までずっと、自分は他人からの指摘を素直に受け止めることが出来る方だと思っていました。「他人から指摘を受けたくない」ことについて、私は明慧ネットに掲載された関連文章で言及された同修のことを、心の容量が足りないとか、このような些細なことは問題に値しないとか、私だったら謙虚に指摘を受け入れて、直ちに改めるはずだとか、等々の思いがいつも湧き出ていました。ところが意外にも、自分が同じ問題に直面するとすぐさま別人の様に変わり、いつまでも不平不満を抱き続け、そこからなかなか抜け出せませんでした。「自分は他の人に不公平に扱われている」などと思い込み、完全に自分の問題ではないと考えていました。

 こう考えてみると、かなり前から私はずっとこの状態でした。これも頻繁に仕事を変えてしまう主な原因の一つです。上司が自分のことを誤解して、いつも通りに接してくれなければ「上司なのに上司らしくない!」と上司に不満を抱き始め、妄想を逞(たくま)しくした挙げ句、「この仕事を辞めた方がいい、ここは私に合わない!」という判断を下しました。そして自分のこの状態はあまり良くないと認識して、内に向けて探してみるものの、根本的な執着を見つけることが出来ませんでした。

 その後、この状態は徐々に目立つようになりました。2018年の中頃、私は新しい職場で仕事を始めました。この会社は立ち上げたばかりで、社員は私1人しかいないため、会社のあらゆる仕事や雑用は全部一人でこなさなければなりません。初めは「この仕事についてから、やっと良い環境に恵まれた、暇な時に明慧ラジオも聞けて、交流文章も読める」と喜んでいました。

 私は前任者の職員の仕事を引き継いで、残されている様々な問題についても上司から説明を受けました。入社して、上司から私の前任者の愚痴をよく聞かされました。その職員はどれだけ怠けていたか、そして暇な時にさぼってはゲームをよくしていたとか聞かされました。もちろん、上司が考えている事は私にもよくわかっています。つまり、前任者の職員のようになって欲しくないということです。社会風紀が日増しに滑落している現代の中国では、どの経営者も信頼できる従業員に仕事についてほしいと願っています。真相を講じることだけが法を実証することではないと思います。大法弟子の言動も法を実証しているのです。なぜならば、世人は内面よりも外見重視の傾向があるからです。そこで私は会社での立ち居振る舞いに、非常に気を付けています。

 この会社は立ち上げたばかりの会社ですが、仕事は比較的簡単なため、暇な時に自分の管轄範囲外の仕事も自らするようにしています。また、会社のホームページに写真を掲載する手伝いもしています。従来会社はこの仕事を業者に任せていましたが、私がこの仕事をこなしたため、会社の経費削減に貢献することができました。初めは無心に仕事をしていましたが、時間が経つにつれて、徐々に良くない考えが湧き出てきました。

 常人には「事を成すのに最も難しいのは、堅持することである」とよく言います。徐々に私がこの仕事の適任者だと社長は気づき初め、業者の依頼を断ちました。時間が経つにつれて、私は心のバランスが取れなくなりました。それは会社の経費削減に大いに貢献したので、自分のボーナスに手当が支給されてもよさそうな気がしてきました。しかし、毎月の給料日に自分が期待している手当は支給されないまま、また次の給料日がやってきます。毎回、自分の期待が裏切られたような気がして、私は「社長はケチな人間だ、これほど貢献したのに、何の反応もないなんてもう奉仕を辞めよう。社長はまた業者を頼めばいい」と不満が増える一方でした。

 その後、私は時間のあるとき、携帯電話を弄(いじ)ったり、忙しいふりをしたりして、会社のホームページのことをほったらかしにして、無視しました。その間、社長は度々私の所にやって来ては、会社の開発企画について私に話して聞かせました。社長の計画は自分の考えとずれがあり、社長に厳しい言葉を投げかけました。また、手当を貰えなかったことを思い出したり、さらには心の中の不満が膨れ上がり、社長が話してくれたことが頭の中に全然入っていませんでした。

 自分の修煉状態が良くなければ、自然と仕事の業績も落ちていきました。その月の給料はそれまでもらった中で一番低かったのです。大法の真相を伝えるプロジェクトにも妨害が現れて、以前のような効果がなくなりました。「なぜなの? 自分のやり方に問題があるのではないの?」と自分に問いかけました。また、大法の真相を伝えるプロジェクトのやり方を変え続けてみましたが、一向に改善されませんでした。

 ある晩、学法を終えて、2、3篇の明慧ネットに掲載された修煉体験の文章を開いてみました、偶然にも、その文章の内容は全て「人に指摘されたくない心について」でした。修煉には偶然な事がないので、これは師父からのお導きだとすぐわかりました。その時私は、師父の各地での説法を学んだばかりでした。説法の中で、師父もこの問題に言及されていました。「多くの神は私の耳元で、あなたの大法弟子は指摘されてはならず、言われるとすぐに怒ってしまい、指摘されてはいけないのであれば、そうであってはならず、それならどのように修めるのか、これでも修煉者なのか、などなどと言っています」[1]この説法に書かれた内容は、まるで自分のことを指しているように感じ、少し目が覚めました。普段、常に不平不満を抱いている心、誰かに何かを指摘されれば、すぐさま相手に恨みを持ってしまう心はみな漏れがある表れなのです。会社に貢献したから報酬がいただけると考え、さもなければ、不平不満な気持ちを持ってしまう自分は、常人より劣っていると感じました。それでも修煉者なのでしょうか? 長年修煉してきた自分が良く修めていると思い込み、前の会社を辞めた時も、自分は利益に対して重んじておらず、未練はないと思っていましたが、今振り返って見れば全く違っていました。

 突然、私は事の深刻さに気付きました。数年来、この心はずっと自分の修煉の中で良くない作用をもたらしていました。修煉状態が酷く悪い時に「退職すれば、きっともっと良い上司に巡り合えるはずだ。再就職しよう」と度々考えたほど、それらに妨害されていました。

 「指摘されたくない心」と「怨念」はまるで双子の兄弟のようでした。互いに補い合い、もしも片方の心が見つかれば、もう片方の心がすぐさま現れてきて、私の頭に自己弁護をする言葉を送り込み、フォロ―するのです。例えば「自分のせいではない、他人の誤解だ」などと言い訳して、自分の過ちを逃れるのです。

 私は師父の法に照らし合せてみました。師父の「大法弟子は指摘されてはならない」という内容の法を噛みしめてみると、私の言動はほぼこの法が言及されていることそのものでした。師父が説かれたのは同修との間の協調についての法ですが、大法弟子には常人社会で常人と接触しているときにも、協調性が求められています。日常生活の雑事から修煉者の状態を垣間みることが出来ます。師父が「相は心から生じる」の法理を説かれました。つまり、このような環境の現状も修煉者の内心の顕れなのです。

 会社に奉仕して見返りが無かったため、怨念を抱いてしまう言動は、利益への執着です。上司に叱られるだけですぐに仕事を辞める行動は、常人から見ても度量のない人間です。常人に「宰相の腹の中は船に竿をさせるほど大きい」ということわざがあります。つまり、宰相のような大人物になると度量がとても大きいということです。大法弟子は将来、宇宙の全ての正の要素に責任を負わなければなりません。他人に指摘されたぐらいで、すぐに何もかも投げ出すようでは旧勢力の笑いの種にされ、その者に漏れがあると見なされて、きっと妨害されるはずです。

 上辺では「指摘されてはならない心」と「怨恨心」ですが、深く掘り下げれば、実は「利益心」と「お高く止まっている心」です。もっと深く探れば、それは「顕示心」と「歓喜心」でした。師父の法を読んで、自分のことが本当に恥ずかしく思えて、その場にいたたまれなくなるほどでした。問題が起きた時に、常に自分が不公平に扱われているとか、他人の誤解だとか、自分の考えは全て他人のせいにしたものでした。これまで自分を深く探したことが一度もありませんでした。修煉者は皆エネルギー場を持っていて、常人に顕れた正常ではない状態が自分に顕れた場合、自分の修煉状態を正すようにという教示だと思います。あるいは、師父または正神からの私への教えや導きだったのかもしれません。しかしこれまでの私はこれを悟らず、自分はいつまでも常人の心で物事を考え、修煉の道から大きく外れてしまっていました。

 ここまで内に向けて探すと、心の奥底にあったあの物質が取り除かれ、自分の空間場が清々しくさわやかで、気持ちの良い空間場に変わりました。私は心の中で師父のご加持を願いながら、「必ずこれらの良くない心を取り除いて見せます」と決心しました。

 大法とは何かについて、常人はかつて一度も聞いたことがないかもしれません。常人はかつて一度も、中国共産党の虚言に騙されたことがなかったかもしれません。しかし、常人は上辺だけで物事を見るのです。ゆえに、大法弟子の一挙一動が全て法を実証する第一歩となるのです。大法弟子は常人に良い印象を与えることが出来てこそ、初めて真相を伝えることが順調に運ぶことが出来るのです。

 これまで修煉の道を歩んできて、師父に大変ご心配をおかけしました。関を乗り越える度に、師父が常に導いて下さいました。師父の慈悲なる救い済度に、心から感謝を申し上げます!!

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『各地での説法十』「マンハッタンでの説法」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2018/11/15/376911.html)
 
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