文/台湾の大法弟子
【明慧日本2018年12月29日】私が他人や社会を憎まなくなると、友人たちも徐々に私と良い関係を取り戻しました。それだけでなく嬉しいことに、病気のない軽やかな身体を得ることができました。
家庭環境の変化と失恋で二重の打撃を受ける
中学生のころ、私は天真爛漫で善良な女の子だったのですが、中学3年の頃、家庭環境が急変し、両親の関係が悪化して離婚すると言い出しました。事態の進展につれ、両親の対立がますますひどくなり、取り返しのつかない状態になり、1年後にとうとう離婚してしまいました。その頃の私は両親の喧嘩がとても嫌で反抗心が芽生え、両親の言うことを聞かなくなり、話す時も不敬な言葉を使いました。のちに誰に対しても八つ当たりをして、家族に対しても社会に対しても全て反抗的で、全ての人を憎みました。
世の中のすべての人が悪いと思い込み、この社会が私の不幸をつくった原因だと思いました。私のかつての天真爛漫さや善良さはみな誤りであり、愚かだったと考えました。長い間、鬱と不健康な心理状態により、10代の時からボーイフレンドと付き合っていました。しかし彼が私の精神にもたらしたのは慰めではなく、逆に大打撃を受けたのです。私は如何なることに対しても無関心になり、物事を冷たい目で見るようになりましたが、自分の小賢(こざか)しさで良い高校と大学に合格しました。
高3の夏休み、私はボーイフレンドと別れたことで、再び大きな打撃を受け、心に深い傷を負いました。憎む心がさらに強くなり、彼は私を騙したと思うようになり、彼を憎みました。私は自分を哀れんで深く悲しみ、それを不平不満だと嘆き、なぜ神が私を彼に出会わせたのかと思いました。私は父に対しても憎しみを持ち、父が温かい家庭を壊したと思い込み、外に慰めを求め彼と出会ったのです。私は両親に復讐したい気持ちが湧き上がり、彼らに必ず償ってもらい、この借りを返して貰おうと考えていました。
心の憎しみを制御できず
憎しみの心を制御できず、私の心の中で憎しみは膨張するばかりでした。すべての人が偽善者だ、彼らやこの社会が私を欺くなら、この世界をぶっ壊してやると本気で思いました。この極端で病んでいる心理状態は私の天真爛漫な本性を覆い隠しました。真(まこと)を失えば自ずと善良さも存在しなくなります。その時から私は心から笑えなくなり、真の友人もなくなりました。私は相手を全く信用せず、自分を防御する心理状態で友人たちと付き合いました。積極的に他人を助けることを嫌い、他人がとらぶっている時でも、相手の困っている姿を見て喜びを感じることで、心のバランスを保っていました。
表向きは他人のために慰め手助けしているように見えても、それは自分が冷淡な人間だと言われないためです。もっと良くない心は綺麗な友人に嫉妬し、彼女達が私と同じ境遇になるように願いました。大学生になった私は真面目に勉強せずにくだらないことを考え、とにかく他人のことが気に入りませんでした。トラブルに出遭うと我慢して譲ることをせず、むやみに怒って他人の非を探し、誰かの家が裕福だと聞けば、心のバランスが保てず、むやみに怒っていました。
実のところこのような考え方は、自分にとって何一つ良い事はないと分かっていましたが、自分をますます陰険な心の病に陥らせ、この状態を制御することが出来ませんでした。もし将来、私が一定の地位に就けば、何らかの危険な行動に走っていたかもしれません。その当時は無力な女子学生だったため行動に移さず、ただ、ただ、心で人を憎んでいました。このように大きな憎しみを抱くことが習慣になっていました。十数年勉強していても、この状態を変えることが出来ませんでした。
法輪功の素晴らしさを体験した筆者(中央)は、人々に法輪功を紹介する
法輪功は私の心を洗い清めた
1996年2月2日、私は法輪功に出会いました。私は長年に亘って迷い、帰り道も分からなかった子供のように、一瞬のうちに自分の家の所在が分かりました。私は両手で『轉法輪』を持ち、心を込めて読んでいる時、一文字一文字が私の心を震撼させました。李洪志先生は「この宇宙には次のような理があるからです。佛家によれば、常人の中のことは、すべて因縁関係があり、生老病死は常人にとって当然のことです。人は、以前に悪事を働いたために生じた業力のせいで病気になったり、魔難に遭ったりしています。苦しみを味わうことはほかでもない業を返すことなので、いかなる人と言えども勝手にそれを変えるわけにはいきません。変えてしまうと借金を踏み倒してもよいということになります。しかも勝手にこのようなことをしてはなりません。さもなければ、悪事を働くことに等しいのです。病気の快復、難の回避、業の消去を願う人々は必ず修煉を通じて、返本帰真しなければなりません。修煉の各派も、このことについては同じように考えています。返本帰真することこそ、人間としての本当の目的です」[1] とおっしゃいました。
『轉法輪』を通読することによって、私は反省しました。憎しみを抱くことは誤りであり、逆に天真爛漫さや善良さがあるほうが正しいと認識できました。憎しみの心によって、これまで私は多くの業を作ってしまい、自分に対しても、他の人に対しても悪い結果をもたらしました。憎しみを抱くことは悪い行為であり、他人を傷をつけてしまう可能性があり、社会にも危害を与え犯罪者になる可能性さえあります。法輪大法が私に分からせてくださったのは、悪いことをすれば、貴重な徳を失った上に業力までもらい、さらに徳を全部なくせば地獄に落とされ、自分の犯した罪を繰り返し、繰り返し償わなければならない、とても恐ろしい結果を招いてしまいます。さらに分かったことは、人は悪い事をしたために業を造り、そのため多くのトラブルや苦難に見舞われるのです。
ですから、私は他人や社会をもう憎まない、憎まないだけでなく、彼らに感謝しなければならず、真心をもって彼らに感謝しなければなりません。なぜならば、これらの苦痛があったからこそ、私は法輪大法と出会う機縁に恵まれたのです! さらに分かったことは、以前、綺麗な友人に嫉妬したことは間違いであり、大間違いであり、自分は苦を嘗めさせられ、心のバランスが取れなくなり、他人の不幸を願い、これは悪い者の行為でした。彼女たちに心からお詫びします。李洪志先生は「悪者は嫉妬心によって、私のため、怒りのために、自分が不公平だと言います。善人は慈悲心が常にあり、憎むことなく、恨むことなく、苦をもって楽とするのです。覚者は執着心がまったくなく、幻のために迷っている世人を静かに観ています」[2] とおっしゃいました。
『轉法輪 』を通読するようになり、私はほんとうに変わりました。私に対して怒る人、態度の悪い人を許すことが出来るようになりました。綺麗な友人にも嫉妬しなくなり、他人の災いをに喜ぶことがなくなり、周りの人に親切に接するようになり、以前の良くない性格や悪い習慣を改めることが出来ました。それだけでなく、無病の身体を得ることができ、身体がとても軽やかで、顔は白く赤みが差しています。友人たちは自ら私に近づいてくるようになり、親しく付き合うようになりました。
1995年、私はまだ法輪大法の修煉をしていませんでした。両親は復縁しょうとしていましたが、私は反抗心から断固として反対し、後になって何も言わなくなりました。しかし心は穏やかでなく、とにかく怒りに満ちていました。修煉してからは私は考えを変えました。父がこの数年来、外地で多くの苦しみを味わい、勇気をもって戻って来たことは、私たち親子3人にとってやり直すチャンスでした。私は李先生の法理に基づいて、他人のことを先に考えなければならず、父に対しても善を勧め、以前のことをいつまでも根に持っていてはなりません。このように考えることで、父に接する態度が良くなり、母と弟はかつてのことを許すことができました。父は感動して苦労をいとわず一生懸命に働き、家のことをよく行ない、家族の仲は睦まじくなりました。私が大法を修煉して良い方向に変わったことを見た家族は、私の修煉を支持しています。
法輪大法は私の家族も救いました。もし私が修煉していなければ、永遠に憎む心に左右され、邪悪な人間になり、私の青春と一生は台無しになっていたことでしょう。法輪大法は私を再び生まれ変わらせ、他人を傷をつけ、社会の犯罪者になるのを防いでくださいました。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪 』
[2] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「境界」
(English: http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2005/8/27/64308.html)