心より魔が生じる前触れ
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2018年8月31日】この半年、同じプロジェクトに参加している同修2人との間にわだかまりが出来、互いに仕事のパートナーとしての関係がこじれました。原因は、この2人の同修の技術面の能力が自分の期待通りでないと判断した私の偏った考えと、私が提案したより優れた企画に賛同しなかった彼らの独断でした。私の能力が発揮できず、プロジェクト全体の効果に影響を及ぼしたため、暫くの間、私はネガティブな状態に陥り、常人の仕事も日々忙しくなっていったため、半年の間、私はプロジェクトの仕事に参与する時間が大幅に減りました。

 先日、私の周りにいた同修が亡くなりました。同修が最期に自分の心より魔が生じた状態に陥っていたことをはっきりと覚えています。その同修は「自分は大法の仕事を沢山こなしたうえ、精進もしている」という認識を持っていたため、他人の意見や、助言を一切聞き入れないので、学法しても良い効果を得ることが出来ませんでした。かつて法を実証し、とても精進していたこの同修の身体が日に日に酷く旧勢力に蝕まれて、最終的に、やつれてまったく別人のようになった彼は、苦痛に耐え続ける中で世を去りました。この過程を目の当たりにして、私は同修が法を実証する仕事をしただけで、それまでの功績を無限に拡大し、自分の長所を他人の短所と見比べ、他人よりも自分の方が優れているという誤った認識を持ってしまったため、一歩ずつ、「自分の心より魔が生じる」道を歩んでしまったとわかりました。

 振り返れば、そこには功績を鼻にかけ、うぬぼれている自分もいました。道理から言えば、他人の功績を横取りすることは良くないことだと十分わかっていながら、心の中では、自分が法を実証することで成し遂げた実績を片時も忘れたことがありませんでした。また、無意識に心の中で、自分が常人社会で養った能力を持ち出し、同修と比較して、自慢する心と同修を軽蔑する心が日に日に増長していったのです。

 数日前、同修が私の手掛けたプロジェクトの内容を見て、とてもよくできていると話してくれました。しかし、同修が褒めていた内容は私も知っていましたが、上手くできたという印象はありませんでした。何故ならば、その作品に自分が製作した部分が少ないと知った途端、自分にとって、作品の価値が瞬時に下がりました。高い評価をくれたその同修の言葉の意味を解釈すると「自分は業務知識を持っていないにも関わらず、この作品を見て、凄く惹きつけられたので、衆生を救い済度する時に良い効果が発揮できるのではないか」というような意味でした。同修のコメントに私は大いに驚き、慚愧に堪えませんでした。自信過剰な自分が認めたものが良いものとは限らず、見下げたものが出来栄えの悪い作品とは限らないのです。場合によってはかなり良い作品であることもあります。それは、「自分の心より魔が生じる」という状態ではないでしょうか。

 『二〇〇三年元宵節での説法』の一節に、「もし誰もが自分が有能で、能力があり、自分が言ったことが正しいと思い、対峙していれば、実はその時に自分の意見を堅持している人に問題があります。彼は考えの中で自分のこのやり方が大法のためにより良く行うことができると思っており、決して自分を誇示していると思っていません。しかし、旧勢力は彼が自分の意見を堅持するということに目をつけて、『あなたが正しい、あなたが正しい、あなたがやっていることが正しい』と絶えず彼の考えを強化します。ですから、その時、彼は冷静ではありません。本当に理性的になって自分を考え、相手の意見をも考えることができれば、仕事は良くやり遂げることができます。その時、なぜ自分を考えないのでしょうか? 自分の方法が採用される機会を失うことを心配しないでください。負けず嫌いの心はなおさらあってはいけません。

 神は、あなたの方法が採用されるかどうかを見るのではなく、その時、神はあなたの心が放下されたかどうかを見るのです。放下することができ、あなたの方法は採用されませんが、あなたはこのことにおいて放下することができ、協力して仕事をより良くやり遂げることができれば、あなたは向上し、次元を高めることができます。修煉とは何でしょうか? これが修煉なのです。自分の意見を固持して対峙し、どうしても自分の意見を強調していますが、見た目は大法のためですが、実は理性的ではありません。本当に切実に考えておらず、以前行ったことと、これから行うことなどをより良く考えていません。ただし、本当に全体から物事を考えず、大法に損失をもたらす恐れがある場合はいけません。執着と不純の心があれば、なおさらいけません。ですから、法の中で成長するべきです」と書かれていました。

 この説法は暫く、学ぶことがありませんでしたが、改めてこの説法に触れた時に非常に驚きました。自信過剰な私は、かつて一度も自分の判断を疑ったことがありませんでした。自分以外の同修の業務水準が低いことは周知の事実だと思い込んでいました。自分は本当に旧勢力に「あなたが正しい、あなたが正しい、あなたがやっていることが正しい」と自分の考えが強化されていたことが今になって、ようやくわかりました。

 法を実証した功績をいつまでも心に留めておくことはありません。仕事をすることは修煉ではありません。大法のことを多く成し遂げることは良く修めていることとは違います。自分が成し遂げたことにいつまでも執着すれば、旧勢力が隙に乗じる機会を与えてしまうのです。

 今になって、中国古代で何故「謙虚さ」を人間としての最も大切な美徳と見做していたかについて、理解が深まりました。西洋にも「驕りは悪魔である」と言う説があります。

 私の僅かな体得です。書き出して自分を戒め、同修の皆さんと共有したいと思います。不適切なところがあれば、同修の慈悲なるご叱責をお願いします。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2018/7/26/371513.html)
 
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