内に向けて探し、人心を取り除く
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2018年5月22日】

 1、党文化の口調を取り除く

 私は金物屋を営んでいて、すぐ隣には「賀」という人が果物屋を営んでいます。この人は遊び好きで、よく店を離れて他のところに遊びに行きます。果物屋に顧客が来た場合、私はいつも大声で「賀さん、お客さんだよ、どこでブラブラしてるの。また遊びに行っちゃったの・・・」。客が来る度に彼を呼びますから、自分の心の中ではいつも他人を手伝っていると考えて、口調も荒かったのです。

 ある日、私が店を離れていた時、客が来ました。そこで賀さんも大声で「なにブラブラしてるんだ、どこに行っちゃったの? お客さんを待たせてるじゃないか」。それを聞いて、私は不満に思いました。毎回私が呼んでいたのに、たうた1回呼ばれただけなのに、あなたの態度は悪いと不機嫌になりましたが、修煉者は外に向かって探すのではなく、内から自分を探すべきだと気づきました。

 では、何故なんだろうかと考えると、彼が私の態度を見習っていることに気づきました。彼は私の鏡であり、私の態度を真似て彼も同じようにし、態度が悪かったのです。このことで自分が間違っていることに気づきました。

 これは党文化から来た強勢的なやり方の一つで、争う方式で自分の観念を他人に押し付けて、相手に意見を述べる機会を与えないのです。そう悟ったので、私は自分を変えようと思いました。それ以来、このような場面に会った場合、私は微笑みながら賀さんを呼ぶことにしました。

 2、怨みの心を取り除く

 私はお金の管理をしていません。ある時、主人がお釣りを用意していなかったため、客が品物を買った時、お釣りが無くて客を待たせてしまい、客も私も焦りました。私は焦ってしまい、主人に大声で叫んでしまいました。よく同修は、私は心と動機は良いが話し方がまずく、人にとって受け入れ難いと言われました。ある常人にもあなたは良い人けど、話し方がつっけんどんで、人を深く傷つけてしまうことがあると言われました。

 師父は、「わたしがいつも話をしているように、もし一人の人が如何なる自分の観念も持たずに他人と話し、相手の欠点を指摘したり、相手に何かを教えたりすることができれば、相手はきっと涙が出るほど感動します」[1]と説かれました。

 私はそれ以来、話し方に気を付けるようになりました。ある日、主人が買ってくれた品物は私が欲しかったものではなかったのです。私はまたぶつぶつ文句を言いました。いやこれは間違いだ、これは怨みの心である、これは私ではない、これを掴んで消滅しようと思うと、あるものが私の背中の上から下に走り、流れ星のようにスーとその場で消滅されました。

 3、情を取り除く

 息子の嫁は私の前で孫を叩きます。理由もなく足で蹴ったり、手で叩いたりします。私は非常に心を痛め、私が叩かれるよりも心を痛めました。

 心を澄ませて考えてみると、師父は、業力は順番に報われると説かれています。これは昔、孫が彼女(嫁)をこのように叩いていたのではないのか? 何故私が見てしまったのか? 私に間違いがあるのではないか。私は孫を溺愛し過ぎていて、嫁は子供をこれ以上可愛がると躾(しつけ)によくないと思っていました。主人は私に「お前は子供を躾ける時間がないので、何も言わず、何も口を出さないでおけ」と言いました。

 私は師父が主人の口を借りて、私を啓示されているのだと悟ると、心は穏やかになりました。後で二人を見て見ると、孫と息子の嫁は笑いながら遊んでいました。

 4、包容力を養う

 ある同修と一緒に法を学ぶ時、彼女が読み間違えたので指摘すると、「読み間違えていない」と言います。正念を発する時、彼女の手が逆になっていたので注意すると、彼女は自分は「手を逆にしていない」と言います。またある時、彼女は私に対し「まず自分のことをしっかり行いましょう、他人に口を出してどういうつもりなの?」と言いました。それを聞いて、私は腹が立ってしまいました。何故、腹が立ってしまったのか? これは本当の私ではなくて、偽りの私だと思いました。

 師父は「正しきは彼、過ちは私」[2]と説かれました。私は人を包容すべきで、怒るのは間違っていると悟ったので、穏やかな声で「読み間違えることは、読んでいた本人は気づきにくいものよ。誰もが読み間違えることはあるし、望まないと思うが、でも、これは法だよ。今後指摘されたら、読み間違えたのか否(いな)かに関わらず素直に受け入れ、再度読み直してみてはどうかな」と言うと、納得しました。

 少し時間が経って、彼女はまた読み間違えて、指摘されても認めませんでした。私は再び腹が立ってしまいました。しかし今では、彼女は私の心性を向上させてくれているので、怒るべきではないと悟りました。

 5、焦る心を取り除く

 ある日、用事があり銀行に行って並んで順番を待ちました。長い時間が過ぎましたが、なかなか私の順番が回ってきませんでした。午後、同修が我が家に来て法を学ぶことになっていて、家に早く戻らなければならないので焦っていました。すると突然、銀行のパソコンが壊れてしまい、業務停止になりました。

 私は自分が間違っていることに気づきました。そこでパソコンに私のあやまりです。私が焦ってしまったので、正常に作動しなくなったのね、焦るのは間違いね、焦るのは間違いよね、と心の中でつぶやくと、パソコンは再び正常に動き出しました。午後からの学法にも影響を及ぼしませんでした。

 修煉交流を書く度に、私はいつも自分が行った事をどうのこうのとすぐに書きたくなります。しかし、これらは全て偉大なる師父、偉大なる佛法の輝かしい現れなのです。自分は法の中の一粒子であり、何もこれと言って自分自身がしたことではないのです。今では心が法の基準に達したら、その都度、師父が、そして佛法がその神威を現して見せてくださっているのだと分かるようになりました。

 注:
  [1] 李洪志師父の経文:シンガポール法会での説法
  [2] 李洪志師父の詩:『洪吟三』「誰が是 誰が非」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2018/4/18/363969.html)
 
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