法を師とし、自我を放下する
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2018年3月21日】師父は、「人間は所詮、人間であり、あなたは人間のレベルを高く見てしまったのです。相手を救うのが難しいと感じたのは、その人のレベルが高いからではなく、非常に低いからです。ですから、真相を受け入れられない相手であればあるほど、次元の低いことを話してはじめて、受けられるようになるのです。その人が本当に知恵のある人であれば、受け入れられないはずはありません」[1]と説かれました。この段落の説法を読んで、非常に驚き、そして、すぐに自分の執着心に気づきました。無意識のうちに常人のものを高く見過ぎていたのです。

 私も両親も高い学歴を持っており、元主人の実家も上流階級の家系のため、知らないうちに他人を見下してしまい、名誉や地位、権力、職務、学歴等を重視し、人を階級別に区別してしまうのです。修煉後、名誉や利益、情を淡く見るようにしてきましたが、やはり、根本的にはまだそれらが取り除かれておらず、すでに形成してしまった観念は中々変わりませんでした。

 一、法を師とし、内に向けて自分を探して観念を変える

 1、党文化の理念を取り除く

 1999年の「7.20」に中国共産党により法輪功への迫害が開始され、元主人の家族は県議員の為、上からの圧力で私と離婚しました。それから、会社を退職せざるを得なくなり、その後も、法を実証するため北京に行き、また、真相を伝える時に何度も不当に拘禁されました。酷い迫害により生活が困難になり、仕事も不安定で、生きていくためには、清掃などの仕事もしなければなりませんでした。そのため、家族や友人たちに真相を伝えることが非常に困難になり、自分の現状が法を実証することに影響を与え、また、他人より劣っているとよく感じたため、真相を伝える時、説得力もあまりありませんでした。

 自分がいつも顔つきや、才能、特技、権力等で相手のことを計っていることに気づきました。はっきり言えば、楽な生活への憧れがまだ心のどこかに存在していたのです。真相を受け入れないのは、人々が常人社会の物事に深く嵌(はま)り込んでいるからです。友人や知り合い、自分の周りの現状は、自分自身の執着心に関係しており、自身の空間場と対応しているのです。心が動揺し、自分を修煉者として見ておらず、大法弟子と常人との関係を明白にしていません。つまり、救うことと救われることの違いを理解していないのです。

 師父はこのように説かれました。「以前説法の中である道理を話したことがあります。中共の党の文化にある言い方があります。つまり、他の人に正しく行うようにという前に、自分がまず正しく行わなければなりません。そして、悪いことをした人が指摘されると、『あなたはまだ正しく行っていないので、私のことに口を出してはいけない。私に口を出す前に自分がまず正しく行ってください』と言うのです。これは先ほど述べた認識と同じ屁理屈です」[2]

 法を勉強して、常人社会でお金を持っており権力も握っていて、名誉もあれば利益も手に入り、何でも人より強く優れているからと言って、相手を救えるわけではないことを悟りました。昔の修煉者は出家しなければならず、多くの物や名誉など全てを捨てて、ただご飯を乞うためのお碗一つしか持っていませんでした。それでも、人々に尊敬されて大徳を持ち、高僧と呼ばれています。私たちは長い間、党文化の環境の中で生活しているため、知らないうちに党文化の思想で物事を考えるようになり、言動も党文化を帯びているのです。そして、党文化の中には極めて強い嫉妬心が含まれています。

 2017年8月のある日の早朝、目が覚めた時、突然、頭の中にある言葉が浮かび上がりました。「李洪志先生の名義で大法を汚しているのではないのか?」、この言葉が浮かんだ瞬間、心の底に隠されている執着心に気づきました。時々、大法を理由に取り除きたくない執着心を隠し、常人社会の中で果たさなければならない責任と義務を適当に済ませたり、身体に病のような症状が現れた時、それを重視せず、内に向けて自分を探すことも、発正念もしないで、かえって法に泥を塗るようなことをしたりすることが時々ありました。

 なぜこのような時に、毎日真相を伝えることを続けられなかったのでしょうか? 体調が悪いから、大法に悪い影響を及ぼしてしまう、常人に理解してもらえなくなるなどを理由にやるべきことをしないようでは、旧勢力の按排を認めたことになるのではないでしょうか。恐れれば、それがやって来るのです。邪悪は体調を悪くすることで衆生を救い、「三つのこと」を行うのを妨害しているのです。

 大法を学べば保険をかけているようなもので、病気にもならなければ、事故にも遭いません。大法を盾にして、得ることばかりを考えて、真相を伝える時、大法を学んだことで受けた恩恵も相手にはっきりと伝えず、大法が私たちのためにしてきたこと、与えてくれたことも相手に伝えないと、心のどこかでそう思い、それが言動に現れているのではないでしょうか? だから、体調が悪くなると、すぐに自分はしっかり修めていないから、衆生を救えないなどといった考えが出てくるのではないでしょうか? これはまさに党文化の邪悪な理念ではないでしょうか? 邪悪にこの人心を利用されているのではないでしょうか? 人々は自分がしっかり修めているかどうか、そして、大きな恩恵を受けているかどうかで救われるものですか? もちろん、違います。自分自身の修煉がどうであれ、心さえ大法から離れていなければ、大法の威力は表れるのです。実際に衆生を救っているのは師父であり、大法なのです。

 師父はこのように説かれました。「実は、自分自身にある正しくないすべての要素も含めて、すべて大法と大法弟子の正念と一致していないものはいずれも、旧勢力の関与によってもたらされたことです。そのため、私は正念を発することを大法弟子の三つの重要なこととして行なうよう指示したのです。正念が外に向けて、そして内にも向けて発せられているため、正しくない生命は誰一人、逃れることができません。私たちの正念を発することに対する態度と行動はそれぞれ異なっているだけです」[3]。この説法を読んで、人心や執着心、観念、マイナス思考などによるいかなる悪い考えの背後には、旧勢力の要素が隠されており、発正念してそれらを解体し、除去しなければならないということを悟りました。

 2、無私無我ができてこそ、他人を先に、自分を後にすることができる

 私はよく法輪功の資料を配ったり、街で人々に真相を伝えたりはしていますが、毎日出かけるわけではなく、時には口を開けないこともあります。恐怖心や面子を重んじる心理、マイナス思考、そして、人に言われたくなかったり、師父と法を信じなかったりなどの要因が存在していますが、もっとはっきり言えば、闘争心や負けず嫌い、嫉妬心、自分を証明したがる心理が働いているのです。真相を伝えることは自分を修め、人心を取り除く過程なのです。自分を実修するこの過程がなければ、次元を高めることはできません。

 「この嫉妬心はくれぐれも取り除いていください。嫉妬心はなかなか恐ろしいのです。嫉妬心はあなたの全ての修煉を緩めてしまい、あなたを台無しにしてしまうのです。嫉妬心があってはいけません」[1]と師父は説かれました。

 私は修煉の中で常に精進している状態を保つことができず、時々精進したり、またすぐに怠けたりと三日坊主の状態が続いています。嫉妬心が原因であることに気づきました。この心により、何かがあるとすぐ意気消沈(元気をなくすこと。しょげかえること)したり、精進しようとする原動力がなくなったりするので、つまり、「私」を目的に修煉しているのです。常人社会や修煉の中で何かの利益を得たくて、それを得られなかった時、もしくは、自分の目的が果たされていない時は、直ちにやる気をなくしてしまうのです。

 ある日、法を勉強している時、昔、労働教養所で自分が「転向」させられてしまったのは、自分を証明したいという嫉妬心があったから邪悪に隙を突かれたということに気づきました。邪悪に褒められるとすぐに歓喜心が現れて警戒心が薄れてしまい、そのため、無意識のうちに邪悪が法を乱すような書き物が目に付いたのです。目についたということは、心のどこかでそれを求めていたということではないでしょうか? その結果、良くないものを招いてしまい、決してしてはいけないことをしてしまったのです。

 2017年5月中旬、同修が作成したはがきの中の「恩」という漢字が「悪」という漢字になっていたことに気づき、すぐになぜこのことが自分の目についたのかと、内に向けて自分を探したところ、近頃、自分を修煉者として厳しく律していないことに気づきました。年配の同修に自ら書き写した『轉法輪』の校正を頼まれた時、多くの誤字脱字を見つけ出したので、つい不満に思いました。本来ならば、その年配の同修がやらなければならないことなのに、自分に頼むなんて、修煉の時間を無駄にしたのではないかと、心の中で不平に思い、嫉妬心が生まれました。良く考えてみれば、今回の出来事は師父からの「賜り物」なのです。このことを利用して次元を高めるチャンスなのに、私は「悪意」を持って同修を恨んでしまいました。同修を恨むということは、師父を恨むということでもあり、次元を高めるどころか、かえって業力を造ってしまいました。本当に情けなく感じました。

 また、ある古い同修は何事においてもしっかりしていますが、ただ、毎日新唐人のテレビ番組を見ては、その司会者がどれほどよかったとか、番組がどれほど素晴らしかったなど、それなりに執着しています。私も他の同修が何を言っても聞かないので、次第に彼女に対して良くない気持ちが生まれ、彼女を見下すようになりました。その同修が書いた原稿を整理している時も、良く怒鳴りつけたり、不機嫌になったり、つまり、嫉妬心が働いていて、慈悲の心が無く、当然、善意も全くありません。

 師父はこのように説かれました。「このように話しましょう。具体的なことは私に聞くべきではありません。答えを言ってしまうと、あなたが修煉の過程で歩むべき道を取り壊すことになります。私が知っていることでも、知らないことでも、私が言えば現実になってしまいます。しかし、それはあなたが行なったのではなく、私が行なったのです。私がそれを行なって何の意味がありますか? 私は皆さんを救いに来て、その道を歩むようにと皆さんに教えたのに、私を歩ませてどうするのですか?」[1]

 師父の説法を勉強して、大法弟子一人人が自分の道を歩まなければならず、他人に頼ってはいけませんが、同時に、何もかも自分1人で担いでいく必要もないということを悟りました。何事においても次元を高める機会と見なすのです。師父が多くの説法の中でこの問題について説かれたのは、つい他人に頼ってしまうということが、大法弟子の中で普遍的に存在しているからです。師父に頼ってしまう、あるいは、同修に頼ってしまう、常人に頼ってしまう、問題やトラブルに遭った時、そして、困難に遭った時はそれに立ち向かうのではなく、後に退いてしまい、そのため、次元を高める多くの機会を逃してしまうのです。

 私は常人社会の中で比較的に高い学歴を持っているため、同修たちは、技術方面や文章作成などの方面でつい私に頼りがちになるのです。そして、私も自分を証明したがり、面子を重んじる心理や何事においても全て自分で背負いたがるので、仕事に夢中になりたくさんの時間を費やして、学法と修煉を疎かにしてしまいました。落ち着いて内に向けて自分を探すことができず、長い間、元気になれなくて、身体に病のような症状が出る原因も考えることすらしませんでした。法を実証する中で、トラブルが起きるとすぐに常人の方法で解決しようとして、多大な時間と気力を費やしてしまいました。法に基づいて自分の不足を探して正していくのではなく、結局は自分を証明したがっているのです。

 「邪悪がいくらはびこっていても、あなたに問題がなければ、あなたに手を出すことができません」[1]と師父は説かれました。体に異常が現れた時はまずそれを否定し、妨害を除去してから、内に向けて自分を探すということを悟りました。きっと自分に問題があったから邪悪に隙を突かれたのです。

 ある日、発正念の時、自分の空間場に木が立っているのが見えました。その木には「死去りて、生来たる」と刻まれていたのです。このことを通じて、人心を取り除く時、葉っぱや枝から取り除いては、時間が経つと再び葉っぱが生えてくるので、根本から取り除かなければ、人心も再び現れるということを悟りました。顕示心理、嫉妬心、歓喜心、闘争心、色欲心、怨恨(えんこん・うらむこと。深いうらみ)など、これら全ての人心は葉っぱや枝にすぎません。自我や、利己心などが木の根っこなのです。自分の為、私利私欲のために思う心を取り除いてこそ、「無私無我で、他人を先に、自分を後にする」という新しい宇宙の要求に達することができるのです。

 師父は、「さらに皆さんに教えますと、実際には、皆さんの以前の本性は、自らのため、私のためを根本としたものだったのですが、今後、何かをするときには、まず他の人のことを配慮して無私無我で、なおかつ他人を先に、自分をあとにするという正覚にまで修め遂げなければならないのです。それゆえに皆さんは、今後何かを行ない、何かを口にするときにも、ほかの人のため、ひいては後世の人のために考えなければなりません! 大法が永遠に変らないようにするために考えなければならないのです!」[4]と説かれました。

 以前、この説法を読んだときは、師父がなぜ「無私無我」を「他人を先に、自分をあとにする」の前においているのかついて理解できませんでした。心の中では、「他人を先に、自分をあとにする」よりも、「無私無我」の方がもっと次元が高いと思っていたからです。しかし、利己心を取り除こうと決心した時、ふとあることを悟りました。師父のこの説法は、まず、「自らのため、私のため」と思う心を取り除き、「無私無我」になれてこそ、他人の事を考えることができ、心の底から、相手のために思うことができるということを、私たちに教えているのです。そうでなければ、頭の中で自分の事ばかり考えていては、相手の事など考える余裕があるでしょうか?

 「平素から慈悲に満ちた、和やかな心を保っていれば、問題が起きた時には、一息おいて余裕をもって、適切にその問題に対処することができるのです。日頃いつも慈悲の心を保ち、善をもって人に接し、何かをする時にはいつも他人のことを考え、問題が起きた時はいつも他人がそれに耐えられるかどうか、他人を傷つけることはないかを考えていれば、何の問題も起こりません。したがって、煉功にあたっては、高い、もっと高い基準で自分を律しなければなりません」[5]。「あること、ある情況が起きた時、それが非常に小さいことであっても、私の第一の念はまず相手を考えるのです。それがすでに自然となったので、私はまず相手を考えます」[6]と師父は説かれました。

 それ以来、修煉することが簡単になりました。あの心理やこの人心などに拘らず、自分の動機が法に基づいているかどうか、私の為か、それとも、他人の為かだけを見るようにしています。つまり、何かをする前はまず、相手の立場になって物事を考えるようにするということです。

 二、自我を放下し、同修を助けて難を乗り越え、精進して実修する

 7月の初めの頃、同修Aさんの妹から、Aさんに病のような症状が現れているという連絡を受けました。少し体を動かすと腰に激痛が走り、ベッドから起き上がることすら難しく、全体学法にも参加できないとのことでした。このことを知った私たち学法チームの同修たちは、全員Aさんの様子を見に行きました。そして、その日から、全体学法の場所を彼女の家に変えたのです。また、昼間が空いている同修は彼女と一緒に法を勉強し、夜時間のある同修は彼女と一緒に煉功と発正念をするという、週替わりのシフトを皆で組みました。同じチームの同修Bさんはすでに83歳になり、足腰が不便なため、他の人が歩いて10分程度の道のりを、彼女は40分もかかってしまいます。それでも、Bさんは何も言わず、シフト通りにAさんの家まで行き、彼女と一緒に学法や煉功をし、そして、発正念を続けました。Bさんの善意に皆、感動しています。

 私は毎週3日ほどAさんの家に行きます。最初は午前中、彼女と共に『轉法輪』を三講勉強していましたが、後に二講に変更し、それに加えて『精進要旨』を勉強し、残った時間は交流することにしました。半月後、Aさんの状況が少しずつ良くなっていきました。朝起きるのに1時間もかかっていたところ、今は30分で起き上がれるようになり、そして、ゆっくりではあるけれど、歩けるようになったのです。

 しかし、ある日突然、激痛がAさんの足を襲い、立つどころか、時には座ることさえできなくなり、全くベッドから降りられなくなってしまったのです。けれども、皆、Aさんの状況に動揺せず、今まで通りに一緒に学法や煉功、発正念をし、彼女の正念を固めていきました。あの頃のAさんは跪くことと伏せることしかできなかったので、その状態で皆と一緒に学法と発正念をしてきました。

 それからしばらく経ち、Aさんは座れるようになり、立つこともできたので、私は少しでもいいから、煉功するよう彼女を励ましました。煉功する前、必ず五式の功法を終えるよう、私は心の中で発正念をし、師父に加持を求めました。そして、Aさんは痛みを我慢しながら煉功を始めました。第一功法の終わり頃、激痛により、Aさんの目に涙まで浮かんだのです。

 お昼の発正念を終えて、私たちは再び煉功を開始しました。第四功法では、Aさんはうまくしゃがめないので、動作が多少できていませんでしたが、その時点のAさんにとっては最大限の努力を尽くしたと思います。第五功法の時、苦労しながらなんとか両足を組ませることができたAさんは、痛みを我慢しながら足が落ちないよう、両手で足を抑えることしかできませんでした。何分か経過し、動作を変える時、Aさんは手印を結ぶことができ、結局、彼女は1時間座り、煉功を終えました。Aさんの意志の力の強さにはとても感動しましたし、感服もしました。後になって知りましたが、私が第二式の動作に変える時、Aさんに正念が生まれ、心の中で「私は煉功する。師父、私は必ず煉功します。そして、師父と共に家に帰ります」と師父に伝えたそうです。そして、彼女は姿勢を正し、師父の加持の下、五式の功法を全て終えることができました。

 この原稿を書くまで、すでに2カ月ほど経ちました。Aさんの状況はますますよくなっていき、腰痛や足の痛みも退き始め、外に出られるようになりました。

 また、私自身の認識も高まり、学法も、煉功にも力を入れています。そして、相手の事を考えるようになり、他人の困難を理解するようになりました。指摘や文句など他人の事ばかり見ないで、寛大な心と善意を持って相手の事を受け入れるのです。Aさんの変化を見て、師と法を信じる自分の正念も強まりました。全ては師父のお陰なのです。私たち弟子は協力し合い、Aさんに全体学法と交流ができる環境を提供しているだけなのです。大法と師父のご加護が無ければ、何も変わりませんでしたし、何も始まりませんでした。

 注:
 [1] 李洪志師父の経文: 『大法伝出二十五周年ニューヨーク法会での説法』
 [2] 李洪志師父の著作: 『各地での説法七』「米国西部国際法会での説法」
 [3] 李洪志師父の経文: 『波紋を呼んだ副元神に関する文章について』
 [4] 李洪志師父の著作: 『精進要旨』「佛性に漏れなし」
 [5] 李洪志師父の著作: 『轉法輪』
 [6] 李洪志師父の著作: 『各地での説法二』「二〇〇二年ボストン法会での説法」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2018/1/22/359918.html)
 
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