「私(し)」を取り除き、法を実証する
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文╱中国の大法弟子

 【明慧日本2017年12月10日】師父は「気と気の間にはどんな制約作用があるのでしょうか? 気による病気治療は不可能です」[1]と説かれました。

 連行された同修が出所したと聞いて、私はとても嬉しくなりました。頭の中で、「彼に会えば、まず彼に弁護士と面会させたい。私はもう少しで新しい仕事を失うところだったことを教えなければならない。彼に会えるだろうか? 彼に言わなければ、彼は永遠にこの事を知らないだろう。でも、知らなければ知らないで構わない。私は名誉を求めていないから」と、あれこれを考えました。考えているうちに、「これこそ名誉を求め、他人の評価を求めているのではないか?」と、はっと気が付き「私はそのためにやったわけではない」と思いました

 この数年、修煉の中で、いかにして「自我」を修めて取り除き、いかにして無私無我の修煉者になれるかが、ずっと私の課題でした。個人的な認識では、「もし迫害に反対すること、或いは同修を助けることを、法を正すことと結び付けなければ、そして、邪悪が同修を迫害することは、つまり法を迫害し、師父の法を正す進展を妨害していると認識していなければ、私達がやった事は法を実証することにならず、ただ同修個人を助けることになり、救出活動も私達と彼個人との間の事になってしまうのです。それは「私(し)の為」になります。「自己」を強調して「私は彼に何かをした」と思えば、それは「自我」があり、「私(し)」があるということです。

 昨年、迫害された同修のために弁護士を依頼しました。実は、迫害された同修の法に対する認識と法に対する信念は必ずしも十分とは言えません。当時の私の心性からすれば、このような同修を助ける気持ちはそれほど強くありませんでした。しかし、この件に関連して、他の数人の同修も連行され、地元の市民にマイナスの影響を与え、常人の家族達の多くも大法に反発していました。それらのことを思うと、私の心の中はとても辛く感じました。

 私はこの同修のために弁護士を依頼しました。彼女の親族の夫婦も同修ですが、弁護士費用については、夫婦2人の意見が異なり、1人は支払ってもいいと思い、1人は払いたくないと言いました。私は「あなた達が弁護士の費用を払いたくなければ構いません。私は少しも異議はありません。私が弁護士を依頼したのはあなたの家族のためだけではありません。私はこのことによって世間に与えた悪い影響を挽回しして、真相を知らない家族達を救いたいからやっているのです」とはっきり言いました。

 結局、開廷した時、私の期待通りの結果になりました。もともと大法に反発した常人の家族達は、弁護人が同修に無罪弁護をしているのを聞いて、法廷で、「なるほど、法輪功煉功するのは罪がないのですね」と叫びました。

 もし、私達が連行された同修だけに焦点を当てれば、そのような考え方には漏れがあるのです。そうした場合、私達は難に陥っている同修の状態に左右されやすく、甚だしきに至っては「お金が無駄になった」と言うかも知りません。そして、救出する過程では、個人の利害得失にこだわってしまうかもしれません。なぜなら、私達は彼を救出しようとしているだけで、法のために考えていないからです。その人のためにやっていると思った時、その人はどうなのか、お金はどうするのかと、いろいろ考慮してしまうと、そこには自分の考えや判断が絡んで来ます。自分の観念があった時、「私(し)」があるので、結局 気と気の間に制約作用がないと言う状態に陥り、超常的な現象が起きにくく、甚だしきに至っては口の業を作り、或いはマイナスの効果が働きます。

 私達の考えをその人個人を助けるという基点に置く時、旧勢力はその人の今までの過ちや、業力、法に対する認識の不足などの弱みを握り、妨害します。私達はその人のこのような厄介な事を解決できるでしょうか? ですから、その人個人の是非を乗り越えなければなりません。法を正す師に手伝い、旧宇宙のすべての不正を正すという基点に基づき、人を救う大法弟子が迫害されるべきではない、邪悪が存在すべきではないと認識して、はじめて邪悪を解体し、迫害を解体することができるのです。

 私達の本当の命は法のために来ています。法を実証して始めて、私達が行なったことは意義を持ちます。「自分がやったことと、大法からいただいたものとは比例していない」と、いつも感銘を受けています。弁護士と一緒に、或いは同修の家族に付き添って、警察、検察、裁判所に行って真相を話し、人を救出するように頼まれた時、私はいつも二つ返事で行きました。時には、身体が迫害されてとても深刻な問題が起きた時でも、身体がもうこれ以上耐えられないと感じた時でも、一緒に行くと、行く時の辛い身体の症状は、帰って来る時にはすっかり消えてなくなりました。私はただ足を動かして走り回っただけなのです。しかし、師父は私に健康をくださり、私のこの肉体が世間で法を正す師に手伝う事ができるようにして下さいました。身体が酷く迫害された状態の中で、私はいつも「自分の次元が低すぎる」と痛感し、「真の大法弟子の基準にまだまだ達しておらず、自分の次元を高めたい、私の体系の生命を全部救いたい」と願いました。警察、検察、裁判所に行って真相を伝え、同修の救出活動に参加して、ほんのわずかのことしかしていないのに、師父は私が欲しいものをすべて下さいました。

 私の命は大法に同化するしかありません! 私は師父と大法だけを讃えます! 私がやったすべてのことは大法を実証するため、それだけです!

 自我を超越すれば、人間の観念、人間の好き嫌い、人間の損得に左右されなくなります。生命の存在意義を知っていれば、狭隘な考えや利益心も消えてなくなります。そうすれば、私達はもっと広い視野を持って、もっと寛容な態度ですべてに対処する事ができるのです。

 注:

 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/11/29/357278.html)
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2017/12/8/166673.html)
 
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