文/中国の大法弟子
【明慧日本2018年3月8日】最近、私は自分の修煉の中で「自我」という執着心があることに気づきました。この執着心は、私の修煉と衆生を救い済度するということに影響しました。それで自分の体験をここに書き出して、皆さんと交流したいと思います。適当でないところがあれば、同修の慈悲なるご指摘をお願いします。
私は教師です。教師として、いつも人のお手本になれるような良い教師でありたい、というイメージをいつも守っています。息子には、孝子(こうし・父母によく仕える子供のこと)であってほしいとイメージし、それを願っています。父親には、優しく、そして強い父親であってほしいとイメージし、それを願っています。主人には、一家の大黒柱であってほしいとイメージし、それを願っています。同修たちから見ると、私の修煉はよくできているように見えています。そのため、私は同修の前ではよく修めているところを見せています。実は、多くの修煉者は気づいていないかも知れませんが、修煉中の協調人や技術者、あるいは天目で見ることのできる人たちにも同じような執着心があり、修煉の中で各自の良いイメージを守っています。
大法弟子は、この社会の中で様々な役割があります。そして、常人社会の中でこれらの役割を必ず果たさなければなりません。私たちは自分の役割や自分の良いイメージを守るとき、実は、自分の名、利、情を傷付けることを怖がっています。これは「自我」を放下できない一種の現れです。私たちはこの「自我」を見つけ出して、はっきりと見分け、そして見抜いていくことが「自我」を放下できる過程です。「自我」を放下すると、「真我」(しんが・本当の自分のこと)が出てくることになり、返本帰真することができるようになります。この「自我」を放下してこそ、修煉者の心の扉を開くことができ、思想と言動も一致することができるようになります。