文/ヨーロッパの大法弟子
【明慧日本2017年11月14日】数日前に起きたある出来事を通じて、私は同修間の隔たりについてよりはっきりした認識を得ました。一昨日の朝、デパートに設置されている神韻の切符売り場に行こうとした私に、ある同修は「某某さんがあなた宛てに送ったメールはもう読みましたか?」と聞きました。そのメールは彼にも転送されたようです。彼の言外の意味は、メールの内容が私と深く関わりがあるようでした。
メール送信者の同修に対して、以前から多少の観念を抱いてきた私は、今朝の同修の含みのある話を耳にした後、マイナスな考えを持ってメールを読みました。全文を通して、同修が私に「なぜ某某同修を情報グループに追加しなかったの? なぜあれこれをしなかったの? なぜどうのこうの…」と詰問や責める口調で、聞いてきた気がしてなりませんでした。
私は早速彼女に返信し、いくつかの理由を書き並べました。「第一、私の夫が全員に対して手伝いの意思を打診するメールを送った後、彼からの返信がありませんでした。それに、私は彼の連絡先が分かりません。また、西洋人を含む修煉者全員への連絡を担当しているのは私の夫であって、私は中国人同修のグループだけを担当しています。ですので、なぜこのメールは私を相手に問いただしてきたのか、しかもほかの2人の同修にも転送されたのか理解できません」
メールを送信した直後、私はこれが闘争心であることを認識しました。師父から「辯少なしに」と教わりながら、私はなぜ師父のお話を聞かなかったでしょうか。内に向けて探し、私には濡れ衣を着せられたくない心、誤解されることを恐れる心、指摘を嫌がり、独りよがり、面子を重んじる心などの人心があることに気づきました。はっきり言うと、私は自我が強すぎ、衆生を救うことを最優先にしていなかったのです。
自分の問題に気づいてから、私は思わず同修のメールを読み直すことにしました。驚いたことに、2回目に読むとき、私は一つも「なぜ」が見えませんでした。3回目に読み直すとき、やはり詰問や責める語気での「なぜどうのこうの…」が見当たりませんでした。私は自分の目を疑いました。ついさっきまでいっぱい見えた詰問(きつもん・相手を責めながら、返事を迫って問い立てること)の言葉が全部消えていました。
その時、私ははっと悟りました。私には執着、人心、観念があるため、邪悪な旧勢力はその隙に乗じて仮相を作り出し、私と同修の間に隔たりを生じさせ、私たちの協調や神韻の推進、さらに衆生を救うことにまで妨害をもたらそうとしたのです。
とても恥ずかしく感じた私は同修に謝りのメールを書き、先ほど経験したことの経緯も伝え、彼女の許しを乞いました。
まもなく、同修から返信が帰ってきました。彼女は私の最初のメールの内容をまったく気にしておらず、「デパートの切符売り場をよく運営していくのが容易ではないので、あなたが抱えるストレスも大きいでしょう」と理解を示してくれました。
同修のメールを読んだ後、私はとても感動し、同修に対するすべてのマイナスの考えを取り除き、よい面だけを見ていくことを黙々と決心しました。翌日、グループ学法で再び彼女に会ったとき、私たちは互いに笑顔を見せました。その瞬間、暖かい流れが私の全身を駆け巡り、私は同修とより親しくなったと感じました。
以上は私の現次元での体得ですが、適切でない部分があれば慈悲なるご指摘をお願いします。