文/中国の大法弟子口述 同修整理
【明慧日本2017年11月12日】私は1995年から法輪大法の修煉を始めた古い弟子です。師父の慈悲深いご加護の下、私はあの血なま臭い残酷な時代を生き抜いて、今日まで歩んできました。師父の洪大な慈悲なる佛光を浴び、私の全てを一新してくださった師父に感謝いたします。
今年の4月のある日、私は朝食をとる暇もなく、急いで大家さんの所に行きました。私達の学法拠点として契約した部屋がもうすぐ期限切れになるからです。
来意を告げると、大家さんは二つ返事ですぐに承諾しました。私はこれからの1年間・12カ月分にさらに1カ月分をブラスして、全部で650元の家賃を払いました。帰り道、私はとても嬉しくなり「これでよかった。同修達が長く法を学ぶ場所を確保した」と独り言を言いました。
しかし、2日後、大家さんが突然家にやって来て、「家賃はまだ払っていないよ」と言いました。それを聞いて、私は大変驚き「これはどういうことだろう?」と思いました。
その時、師父の法を思い出しました。「修煉する人 自らの過ちを探し 各種の人心取り去ること多し 大なる関小なる関、落さんと想ふべからず 正しきは彼 過ちは私 何を争ふものか」[1]
私は「大家さん、私は確かに650元払いました。しかも13カ月分払ったのです。あなたは道理をわきまえ、善良な人です。一緒にその日のことを思い出してみましょう」と言いました。同時に「今度のことは決して簡単なことではなく、きっと何か原因がある」と思いました。
私は突然師父の法を思い出しました。「修煉者であるわれわれは、なおさらそのようにすべきではありません。修煉者は自然に任せることを重んじるべきです。自分のものなら、無くなることはないし、自分のものでなければ無理に争っても得られません。もちろんそれは絶対的ではありません。何もかもそんなに絶対的であれば、人間が悪いことをする問題もなくなります。つまり、その中に不安定な要素が若干存在している可能性があります。しかし煉功者の場合は、本来、師の法身が守ってくれていますから、他人があなたのものを取ろうとしても取れません。ですからわれわれは自然に任せるように言っているのです。時に、それが自分のものだと思い、他の人もあなたのものだと言ってくれても、実際はあなたのものではない場合があります。あなたは自分のものだと思い込むかも知れませんが、最後になるとあなたのものでなくなります。その点から、そのことに対してあなたが無頓着でいられるかどうかを見ますが、無頓着でいられなければそれは執着心なので、この方法を用いて利益にこだわる心を取り除かなければならないのです」[2]
私は大家さんに「どうですか? 思い出しましたか?」と聞くと、彼女は笑顔を見せて「確かに払ってくれましたね」と言って、そのまま帰って行きました。
しかし、数日後、大家さんはまた家にやって来て「家賃を払っていない」とか、「払った家賃は足りない」とか、話が二転三転して、しかも、とても立腹した様子でした。まったく一言も言わせてもらえない私も、心が穏やかではなくなりました。「事態はどうしてここまで発展したのか? やはり私に取り除くべき心があるのではないか?」と思いました。そして「きっとそうだ」と強く感じました。
答えを見つけようとした時、師父の法が脳裏に浮かんできました。「いかなることに遭っても、最初の念はまず自分を考え、これはすなわち『内に向けて探す』ということです」。[3] その瞬間、心が広々として明るくなり、心地よく春のように暖かくなりました。
私は心の中で師父に言いました。「すべては名利心、焦燥心、怨む心、闘争心、悔しい心、面倒を嫌がる心、優しくない心が邪魔しています。これらの人心はいりません。すべてを滅して、排除します。意気地のない弟子はまた師父にご心配をおかけしました」
これらの人心が見つかると、大家さんの態度も180度大転換して、彼女はすぐに「あら、思い出しました。あなたは確かに家賃を払ってくれました。その上、あなたは少しも間違っていません。私はどうしてこんなにいい加減だったのかしら? 私はうまい汁を吸うような人じゃないですよね。そうでしょう」と言いました。
私は「大家さん、私はあなたのような誠実な人が大好きです。私も態度が良くなかったし、言葉も優しくありませんでした。本当にごめんなさい! 師父は私達に、いつでもどこでも「真・善・忍」に基づいて良い人になるようにと教えて下さっていますが、私は今日それをしていませんでした。許してください」とお詫びしました。
大家さんが帰って行く後ろ姿を見て、私はとても感激しました。「正念を持って正しく行えば、大法にできないことはありません」。私は心の中で師父に叫んでいました。「師父、弟子が立ち向かうすべての関門、苦難、歩みの一步一步に、師父の慈悲なる済度の心血が注がれています。千言万語を一つの言葉にすれば、それは『師と法を信じる』の一言です。この宇宙の大法『真・善・忍』をずっと探し求めてきた私は、心から一念を発して、必ずしっかりと修め、師父について家に帰ります」
注:
[1] 李洪志師父の詩:『洪吟三』「誰が是 誰が非」
[2] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
[3] 李洪志師父の著作:『各地での説法十一』「大法弟子とは何か」