病業による迫害
文/同化
【明慧日本2017年7月28日】「旧勢力の妨害なのか、師父の按排なのか」について多くの同修が区別できず、これによって前にも後ろにも進めずどうすることもできない状況に陥り、ある同修は長年病業に陥り、口では迫害に反対していますが、心の中ではどうにもならず、また、ある同修は長期にわたって経済的に、あるいは家庭の問題に苦しめられ、旧勢力の迫害の中でもがいており、まるで現状の迫害を認めないこともできないかのようで、部分否定することしかできないのです。
ある同修は自分の問題を認識することはできますが、長期にわたって学法していても、どのように突破するのかを悟っておらず、さらには、習慣が自然になり、旧勢力の隠された妨害に気づかず、否定しているつもりでも、実際にはすでに認めているのです。ここでみなさんと交流するにあたって、悟性に限りがありますので、不適切なところがあればどうか訂正をお願いいたします。
1. 旧勢力の迫害を徹底的に否定し 道を正しく歩む
師父は「これは旧勢力が按排した魔難を認め、それらが按排した魔難の中でいかに良く行うかのことではなく、こういうことではありません。私たちは旧勢力そのものが現れたこと、それらが按排した全てまで否定しており、旧勢力の存在自体を認めていないのです。私たちは根本から旧勢力の全てを否定しています。旧勢力を否定し排除する中で皆さんが行った全てこそ、威徳あるものです。それらが作った魔難の中で修煉するのではなく、それらを認めない中で自らの道を正しく歩むのであって、旧勢力そのものによってもたらされた魔難の現れを消滅することさえ認めないのです」[1]と説かれました。
明慧ネットの『宇宙の中の映像を見る』の中の一文に1例が書かれており、同修のAさんが見た映像は、自分が道を歩いている時に、片足が突然長くなり、片足が短くなり、足が不自由になったように感じたので、すぐに心の中で「私は大法弟子なので、だれも私を迫害することはできず、旧勢力の存在を否定し、それらを滅します。師父が私を見守ってくださっているので、だれも介入することは許されません」と迫害を全面否定した、というものでした。Aさんは自分の体に出現した状況をずっと心の中で排斥し、自分の両足に向かって「しっかり歩いて、旧勢力の言うことを聞かないで、主元神の言うことを聞いて、足よ、正常に戻りなさい」と伝えました。歩いているうちにバキッという音が聞こえ、骨が元に戻り、足が正常に戻り、不自由だった足が正常に戻り、そのまま50メートルほど歩くと、心は静かになりました。その映像は「もしAさんの一念が正しくなければ、足が本当に不自由になった」ということを表していました。
多くの同修がこのことから啓発を受け、Aさんがこの関を乗り越えたことを認識した時、旧勢力の迫害を徹底的に否定し、純粋で雑念がなく、うまくやれなければ半生が不自由になる大きな関をすぐに乗り越えたのでした。内に向けて探してみると、私自身、似たようなことに遭遇した場合、こんなにも早く向上するでしょうか? 向上する、といっても、どこを向上しなければならないのでしょうか? 一緒に学んで修煉しながら内に向けて探せば、同修との差が見つかり、同修との交流の中で恩恵を受けるでしょう。
2. 第一念では迫害を認めながら 迫害に反対してはいけない
同修のBさんは「もし、私がこのような試練に遭遇したら、第一念ではいつも習慣的に内に向けて探し、これが妨害なのか、それとも筋肉の筋違いであるのかを自分に問いかけます。筋違いであれば、立ち止まって足踏みをしてみて、それでもだめなら、心性のどこがおかしいのかを探します。どうしてこのようになったのかを探します。そして、これが病気ではないとわかったら、決して病院には行きません」と言いました。
同修のCさんは「もし私が遭遇したら、病院に行ってX線を取るかもしれず、足の骨の様子を見て安心してから、しっかりと心性の上での原因を探します」と言いました。
BさんもCさんも、表面的には内に向けて探している点において法に即していますが、実際には、すでに旧勢力の妨害と迫害を認めており、迫害を認めながら迫害に反対しているので、すでに法を正すことに対する要求に即していません。
『轉法輪』第四章の中で説かれているのは、おばあさんが車にぶつかって「しかし、ゆっくり地面から立ち上がったその学習者は、『大丈夫です。行ってください』と言って、身体に付いた土をはたいてご主人と一緒にそこを去りました」ということです。
ここでは徹底的に迫害を否定する内涵を私たちは悟ることができ、病業に襲われたときに大法の徒は第一念で心の底から、自分は大丈夫だ、自分と迫害は無関係だ、旧勢力にはこのような妨害をする資格がない、と考えることによって徹底的に否定すれば、関を徹底的に乗り越えることができます。このような第一念こそ大法の要求と一致するのです。
交通事故などの命を取りに来るような大きな関に際して、大法の徒がもし第一念で「どうして私はこのような関に遭遇するのか? どうして命を取りに来るような関に遭遇するのか? このような命を取りに来るような関を旧勢力はどうして按配したのかを見なければならない、それらがこのように按配するのは法に則していないので、それらと話し合って善解し、二度とこのようなことが起こらないよう迫害に反対しなければ・・・」であったなら。もしこのような第一念であったなら、確かに地面から起き上がることができず、第一念が正しくないので、まず迫害を認めてしまい、長いこと半身不随になり、いつになったら法理の上で正すことができるのかを見なければならないのです。
BさんとCさんの表面上の思想は実際にはこのようであり、第一念で迫害を否定していないので、迫害に陥り「なぜこのようになったのか? なぜこのようなことに遭うのか?」と問うたのです。常人の「足の筋違い」から原因を探し、迫害に陥り、迫害の症状を認めたのです。認める内容が多ければ、深く陥っていけばいくほど関を越えるのが難しくなります。そして、時間稼ぎをする時間が長くなれば、自ら苦しみをなめながら修煉するようなもので、正法を得て大道を歩んでいないのです。
3.迫害に陥ったことを分析し 総括することは正念ではない
多くの同修が「病業がやってきたが、もし師父が按配なさった消業であれば受け入れるが、旧勢力が按配した妨害なら否定する」と言います。肝心なのはそれを見分けられるかどうかということなのです。
師父は「いかなる妨害に遭っても、具体的な出来事に深入りせず、自らを妨害することのないようにしてはじめて、妨害を振り切ることができ、しかも威徳はさらに大きくなるのです」[2]と説かれました。
筆者は「師父は弟子に見わけさせず、その次元に迷っていたのでは永遠に見分けられず、それでもあなたは師父の按配が見えるのですか? 永遠にみることはできません。見分けること自体が常人の心で、少しでも見分けようとすれば法から逸脱し、迫害に陥り、迫害の中にもぐりこんだまま出られなくなるのだ」と理解しています。
BさんとCさんは第一念で迫害に陥り分析し、具体的なことを混ぜ入れてしまい抜け出せなくなり、さらに妨害なのか筋違いなのかを区分したのです。小道であればあるほど多くのことを研究しますが、それはみな、取り除かなければならない観念なのです。徹底的に迫害を否定せず、それぞれの次元で迫害を認めると、このような結果になり、それぞれの次元において病業に陥り、師父の按配から逸脱するのです。迫害の中に陥ってから否定するのであれば、どうやって徹底的に否定できるのでしょうか? さらに、人を救う使命もおろそかになってしまうのです。
師父はまた「新しい学習者以外、師父は99年7月20日以降、いかなる個人修煉の関も皆さんに与えたことがありません。なぜならば、皆さんの個人修煉は全面的に衆生を救い済度し、大法を実証することに切り替えられたからです」[3]と説かれました。
この説法に照らしてみれば「Aさんが遭遇した難は師父の按配ではなく、旧勢力が強化したものであり、師父は旧勢力を逆手にとって弟子に威徳を樹立する機会を与えたにすぎないのだ」ということをみなさんは悟るはずです。Aさんは正しく行い、第一念で徹底的に否定しました。まったく分析などしなかったので、旧勢力は全く存在すべきではなかったのですから、旧勢力の按配を分析して何をするというのでしょうか?
Aさんは足が不自由になるという強化された業による関を迅速に突き破りましたが、Aさんは分析し総括したでしょうか? 分析する必要はなく、関を突き破った経験から総括は瞬間に完成しており、これこそ旧勢力を徹底的に否定するということです。
法を正す時間が緊迫の度を深めていくにつれて、急いで人を救い、精進している弟子はどんな時でも法の中で師が法を正すことを手伝っているのですから、どうしてさらにものずきにも、旧勢力の迫害の按配を分析したりするでしょうか? 旧勢力は全く存在すべきではないのですから、大法弟子が分析する必要はないのです。旧勢力に対しては徹底的に否定し取り除くだけなのです。もしこれができれば、旧勢力はあなたのうわさを聞いただけで肝をつぶし――どうして発正念の時だけこのことが行えて、普段はこの正念がないのでしょうか? この正念がなければ、旧勢力はあなたのそばに残存し、自由に行き来して、迫害を加え、それはつまり、迫害を認めている、ということです。
4. 第一念が異なれば 病業の結果も異なる
『轉法輪』第四講の中で「物事の善し悪しは人間の一念によるものであり、その一念の違いによって異なる結果がもたらされることがある」と説かれています。
この法に対してはっきりと悟れないと、着実に修める中で多くの問題が引き起こされます。
(1)同修のDさんはいつも4、5日かけて滅する病業を15分間で解決した。
同修のDさんはある時、突然病業に襲われ、ひどい風邪の症状で、頭が激痛に襲われ、鼻水が流れ、体の骨がばらばらになりそうになり、このようになるといつも病業で倒れ、消業するのに4、5日かかるのですが、旧勢力の病業による妨害を徹底的に否定することを悟ったので、この時の第一念は「大丈夫だ」というもので、座禅をして正念を発すると、15分後、病業の症状がなくなったので、引き続き法を実証する仕事を続けました。
(2)同修のEさんは病業が来るとすぐに休み、学法と法を実証しに行くことは数日休んでからにしよう、と思いました。
いつもは大法が協力を必要とする仕事が来るのですが、同修のEさんのところにも病業による虚像がやってきました。Eさんの第一念はいつも「だめです、法を実証する仕事は数日休みましょう」でした。これ自身が旧勢力の迫害を認めていることになるのです。ある時、最初の反応で躊躇し「内に向けて探してみて、今回は大丈夫かどうか?」と思いました。大丈夫なら大法の仕事を行いますがだめならしない、と考えて2日目にダメになり、また休むことになり、これは強化された病業に対して同意しているのです。
(3)同修のFさんは大法の仕事をなまけずに 病業に立ち向かった。
ある時、病業の虚像は同時に同修のFさんを襲いましたが、Fさんはずっと頑張り続け、大法の仕事を絶対に怠らず、法のために貢献しながら消業し、病業に陥っても怠りはしませんでしたが、なにしろ、病業の虚像を徹底的に否定しなかったために、多少なりとも大法の仕事が影響を受けました。
(4)同修のGさんは病業に遭遇し 寝そべって消業した。
『漸悟の中で見た長期にわたる病業(十二)』の中で「同じぐらいの病業に遭遇しても、ほかの同修はあまり気にせず、いつも通りに学法、煉功して、2、3日で乗り越えますが、すぐ忘れてしまう同修の場合、ベッドに横になり、説法の録音を聞くだけで本を読むこともできないのです。しかも、考えがつい別のことに行き、10日から半月かかってしまい、結局、苦しみに耐え・・・苦しみに耐えて関を乗り越えるだけで、心性を向上させないやり方は、以前の世間小道のようで、人心を真っ直ぐに指す大法の修煉ではありません。しかし、この苦しみに耐えられない心は、世間小道にも及ばず、法への理解も深められないので、長期に感性的な認識に止まっています」という比較的普遍的な状況に触れています。
同修のGさんはこの典型で、病業が襲ってきて、心の中で「旧勢力の按配を全面的に否定する」と念じましたが、役に立ちませんでした。なぜなら、Gさんの病業中の態度は、煉功せずに寝ころび本を読まずに説法だけを聞き、折につけ居眠りし思い出したように「つらい」と口にしていたからで・・・。そこには、正念正行などどこにもありませんでした。
師父は「病業が現れた本人の修煉はどうなっているのでしょうか? この状態で強い正念を持ち乗り越えることができるのでしょうか? 本当に自分を神として見なし、何も気にしていないのでしょうか? 今日明慧ネットのある記事を読みました。ある学習者は殴打され、足が粉砕骨折になりましたが、接骨もせずにギプスを装着されました。この学習者は自分の体が不自由になるといささかも思っておらず、まったく気にしていません。毎日法を勉強し、正念がとても強く、少し座れるようになったら煉功します。医者から、粉砕骨折した部分が接骨されないままギプスを装着されたのは、みな刑務所の病院がやったことだ、と告げられました。彼女はまったく気にせず、足を組んで煉功し、痛くてたまらないときも煉功を続けていました。しばらくしたら、足を組むときの痛みが消え、治ったのです。今は飛び上がったり跳ねたりしてもまったく問題はなく、正常な人と同じです。(拍手) このようにすることのできる人に対して、旧勢力は絶対手を出すことができません。このようにすることができる人は関を乗り越えてくることができます。正念とは何でしょうか? これがすなわち正念です」[4]と説かれました。
ここで挙げたBさん、Cさん、Dさん、Eさん、Fさん、Gさんはみな、1997年以前に法輪功を学び始めた古い大法弟子です。Gさんはこの3年、毎月1、2回、病業がやってきては倒れ、3、4日かけて消業すると何事もなかったかのようにふるまいます。さらに、自分が特殊だと思っており、師父がこのように按配されたのかもしれない、と思っているようです。正念正行がないので、邪悪に迫害のしっぽをつかまれ――Gさんの正念が迫害されたのです。もちろん、旧勢力がこのように行うのは犯罪ですが、旧勢力に口実をつかまれ、この時になって正念を発して迫害を否定しても、大きな作用を働かないのですが、なぜでしょうか?
5.どんな時にも 旧勢力は介入する資格がない
旧勢力は旧宇宙の理に従って行っていますが、旧勢力は大法弟子を管理する資格があるのでしょうか? 資格はありません。大法弟子に漏れがあり、きちんと修煉しなかったとしても、旧勢力に介入する資格はなく、なぜなら師父に見守られているからです。旧勢力が師父に従わなかった場合に、介入して迫害するので、大法は旧勢力に対して否定し、排除するのですが、これは無条件に行われるのです。
しかし、多くの同修が、漏れがあれば旧勢力が介入してくる、とぼんやりと認識していますが、旧勢力の介入を仕方がなく認めており、これは法に即していません。師父は永遠に旧勢力を認めませんが、大法の徒がもし思想の上で、旧勢力を少しでも認めたなら、たとえそれが仕方なく認めてしまったものだとしても、やはりいけないことです。
6. 迫害を否定することと 内に向けて探すこと
内に向けて探すことは法を正す修煉において常に保持しなければならない心ですが、迫害が襲ってきた時、病業に見舞われた時の第一念は「大丈夫だ」であるべきで、全面否定し正念を発して排除するのですが、この時に内に探すべきではありません。交通事故などに遭った時、第一念がもし「大丈夫だ」ではなく「どうしてこんなことに遭うのか? きちんと自分を探さなければならない」という第一念だったならば、地面から起きがれないことを保証しますし、命を取りに来るような迫害が重くなりますが、それは第一念で迫害を認めたからです。
同じ理で、迫害に襲われた時、病業に見舞われた時に正念を発するのと同じで、旧勢力の生き残りがやって来たのですから、この時の第一念は「私は正々堂々とした大法弟子なので、絶対に大丈夫で、迫害とは関係なく、師父のことは聞きますが、あなたの言うことは聞かず、全面的に排除します」であるべきです。
しかし、もし全面的に否定して正念を発しても妨害を徹底的に排除できないのであれば、一度やめてきちんと自分を探さなければならず、これは自身の心性上の問題が迫害のしっぽとして旧勢力につかまれたからです。自分の執着と心性の問題は、まだ法に同化していない人心に対応しているのです。
私は一つの状況を見ましたが、執着心も物質的存在であり、旧勢力は執着心が発する場で迫害するので、正念を発しても功が旧勢力に打ちあたらず、なぜなら正念を発する人が執着心を保護して放さないからです。あるいは、旧勢力が執着をとらえて迫害し、自分の欠点を他の人の手にしっかり握られているのに、自分の欠点をかばおうとしていますが、それでどうやって旧勢力を排除するのですか? 正念を発する前に自分の執着を取り除くだけではだめで、普段から心を修めて執着を取り除かなければならず、そうでなければ、自分をの空間場をきれいにするだけでは欠点をかばうことはできないのです。
執着心が絶えず抑制され、消滅されて少ししか残っていない場合には、旧勢力の黒い手も自らを隠し切れないので、正念を発して完全に旧勢力を排除することができるのです。
7.迫害に追い込まれた後に 正確に教訓をくみ取る
もし同修がうまく把握できず、迫害の中に陥れば、しっかりと内に向けて探し、まじめに教訓をくみ取らなければなりません。教訓のくみ取り方が間違っていれば基準に達しず、教訓をくみ取った結果、師父の按配でもダメになり、第一念の重要性を悟れないのでダメになり、純正(Aさんのように旧勢力がいかなる観念も強化できないほどに純正になれるのであれば、参考にする価値がある)に達することができず、病業が長引くか、ほかの迫害に陥り抜け出せなくなるのです。
(未完、つづく)
注:
[1] 李洪志師父の著作: 『各地での説法四』「二〇〇四年シカゴ法会での説法」
[2] 李洪志師父の経文: 『波紋を呼んだ副元神に関する文章について』
[3] 李洪志師父の著作: 『二〇〇三年元宵節での説法』
[4] 李洪志師父の著作: 『二〇〇五年サンフランシスコ法会での説法』