自分を問う
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2017年7月19日】ある日、仕事量の統計を取っているとき、自分がやったプロジェクトの一部は、1年前に同僚がやったもので、私は印刷と整理をしただけだと気づきました。この仕事は私の統計数に記入するべきか、同僚の統計数に記入するべきかと悩みました。

 まず私は、自分の統計数に記入しようと考えました。今回、私がやった仕事は同僚とは全く関係がなく、別の同僚もみな自分の統計数に記入したのです。この仕事量は私のものにしましたが、私は心が落ち着かず、「他人の仕事量を盗んだことになるのではないか? やはり同僚の統計数に記入しよう」と考えました。しかし、私は心のバランスが取れなくなり、自分はややこしい仕事ばかりやって、なにも得ていませんでした。今回、以前やった分がちょうど相殺され、盗みには当たらないと考えました。

 私の心は乱れ、人心が起きたり、正念が生じたりしていました。

 そこで、私は自分に問いました。「私は誰ですか? 私は大法弟子です」「私はどうすれば良いのでしょうか? 法を以て師とすべきです」。次に「法はどのように要求しているのでしょうか? 真実を話し、真を実行するのです」と考えました。私は師父がおっしゃった「考えてみてください。煉功者にとってなにかの財を求めるでしょうか?」[1]を思い出し、ぱっと明るくなりました。天の功を自分の手柄にするところでした。

 自分に問うた後、頭がはっきりし、自分が誰であるかも分かり、法も思い出し、多くの(名利心、嫉妬心、不満、欲張り)人心を見つけ、自分に厳しく要求すべきだとも分かりました。

 常人社会の中で生活している私たちには、至る所に落とし穴があり、いつも試練があります。修煉者には人心があるがゆえに、念は人と神の間で揺れ動きます。どのように自分を把握するのでしょうか? 常に自分の心の内に向けて探すことが、自分を修める一つの方法です。

 自分に問い、念が出ると、すぐに捕えて注意します。師父は「あなたの主意識が覚者ほど強くはありませんが、正しくない念が現れたらすぐそれに気づき、正しくないと分かったのは、修煉によってできたその部分の考えが既にかなり強いからです。その部分は作用を働いています。そのため、良くない考えが現れたらすぐにそれに気づき、捕まえることできます」[2]とおっしゃいました。人は観念についていきやすく、修煉者は注意しないと観念にも動かされ易く、ときには大きく歪んでも気づかないのです。当時の私のように考えれば考えるほど自分は損をしたと感じ、都合の良いようにして、他人の利益を取りたくなります。ですから、自分の考えをろ過し、よくない行為を止めるのは必要です。

 その後のある日、私は友達の家から帰ってくるとき、自分が大げさにまくし立てる姿を思い出しました。私は再び自分に問い続け、さきほど顕示し、自分を実証したでしょう。そうでなければ、こんなに多くの例をあげ、証拠をあげて論じなかったはずです。自分に問うた後、自分を実証し、他人の心を変えたいと思う強い心を見つけました。

 実際、自分に問うとき、内に向けて探し、自分を修め、主意識を強め、正念を増強しているのです。

 これは私の一つの小さな見識です。師父の慈悲なる啓発に感謝致します。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪
 [2] 李洪志師父の著作:『米国西部法会での説法』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/6/20/349837.html)
 
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