文/中国の大法弟子
【明慧日本2019年4月11日】『轉法輪』の本を開くと、『大法』の二文字が目に入ってきましたので、「大法、大法」と心の中で2回念じながら、この「大」の文字について少し考えてみました。すると少し悟ったものがあったような気がしました。
師父は「われわれのこの功法は、動物の真似などをしている多くの功法とは違って、ずいぶん大きなものを修煉しています。この功法によって修煉するものはあまりにも大きいのです。釈迦牟尼や老子が当時説いた理は、すべてこの銀河系の範囲内の理でした。われわれ法輪大法は何を修煉しているのでしょうか? われわれは、宇宙の演化の原理に従って修煉し、宇宙の最高特性─真・善・忍という基準に基づいて自らの修煉を指導しているのです。われわれはこれほど大きなものを修煉しているのであり、宇宙を修煉していることに等しいのです」[1]と説かれました。
師父は何故こんなにも大きな理を説かれたのでしょうか? それは修煉者の私達の容量を拡大させ、天の外にもまた広大な天がある事を私達に教えられ、私達がいる微小かつ低い次元からさらに遠く、さらに高く、さらに広大な境地へと導かれているのではないでしょうか。実は人間が生きているこの空間は、まるで胡麻を拾ってスイカを失ってしまう(小さなことに執着して、大切なものを失ってしまうことの喩え)ような一生を送っているのです。なぜならば、常人はその境地に留まっているからです。例えば、蟻にたとえて説明しますと、蟻にとっては菓子の屑(くず)は最も大切なものであり、それを手に入れるために全力を挙げ、共食いさえもしてしまう程です。人間も同じではありませんか。領地の争奪戦を起こしたり、主権を握るために相手を死の境地まで追い込んだりします。僅かな利益のために自害することを選ぶ者さえいます。人間は一生苦労に苦労を重ねて、結局は手に入れたものは、業力以外に何もありません。
実は、人間は心に大志を抱いてこそ、初めて大きなことを成し遂げることが出来るのです。師父は「これは韓信が絶大な忍の心をもっていることを物語っており、普通の常人とは違っていたからこそ、こんな大きなことができたわけです」[1]と仰いました。韓信は豪勇を誇らず、股下をくぐらされてもその屈辱に耐え、大志を抱いた人間だったからこそ、後に偉業を成し遂げられたのです。韓信がそこまで忍耐できたのは高い境地にいたからです。韓信のような広い胸襟がなければ、これらのことはできないことだと思います。しかしこれは、俗世間の著名人の話です。
修煉界の例を挙げてみますと、釈迦牟尼佛はかつて王であり、一国の最も尊い国王として天下を統治していました。民たちにとって、釈迦牟尼佛は修業をしなくてもすでに至高の主上でした。しかし、釈迦牟尼佛はさらなる大きな、さらなる立派な志を持っていました。この世の生老病死や六道輪廻を目にした釈迦牟尼は、衆生を救い済度したいという一念を発し、十重二十重(とえはたえ)の障害を打ち破り、俗世間のすべての名利を捨て、我が王国、王位までもすべてを献上して、修煉の道を選び歩みました。苦しい修行を経て、最後には正果を得たのです。釈迦牟尼佛の到達した次元は、まだごく普通の次元に過ぎないことに師父が言及されています。しかし、釈迦牟尼佛が認知できたこれらのことは、どれほど大きなものだったのでしょうか。幾層の天にまで到達したのか量りしれません。それでも、迦牟尼佛が説かれた「其の大は外無く、其の小は内無し」[1]の理はすでに奥深いものでした。
それでは大法弟子の今日の修煉について触れてみたいと思います。大法弟子の今日の修煉形式は、寺に入らず、この地球上であればとこでも修煉することが出来るのです。ゆえに、大法弟子が修めている法はどれほど大きいものなのか、境界はどれほど高いものなのかは計り知れません。この地球も、師父の目から見れば僅か「一粒の宇宙の塵埃」[2]であるにすぎません。師父は「常人の中で人に罵られても、黙って平然としています。殴られても何も言わず、一笑に付するだけで済ませてしまいます。そうなれば、その人の心性はもうかなり高くなったと言えます」[1]と仰いました。長い間、邪悪は地球上で転がりながら跳ね上っては、師父のことを罵っています。師父が「それらがきっと私を攻撃していると分かっていますが、どのように攻撃しているのかを私は知りたくありません」[3]と仰っています。師父が仰っているように、宇宙で法を正している中で、処理しなければならないことが数えきれないほどあるのに、ガマガエルの鳴き声なんか聞いている暇があろうはずがありません。要するに、師父が邪悪の相手をする暇などないことを話されています。師父の胸襟はなんと大きいのでしょうか!!
この「大」の文字を悟ってみると、目の前のすべてのものが徐々に小さく感じてきました。苦しみ、喜び、名利心、情、闘争心、嫉妬心、みんな存在しなくなりました。そうして静かに周りを見渡してみると、世人が自分の懐にしまわれたのが見えました。まるで親が自分の懐にいる子供を見下ろしているかのようでした。親ならば、いつまでも自分の子供の過ちを根に持つことなど、当然しません。
悟ることは、まるで交通渋滞の現象のようです。道が狭くても悟ることが出来れば、道が広がったかのように、交通量がどんなに多くても、滞りなくスムーズに流すことが出来ます。同修の皆さんは、すでにこの理を悟っているかもしれません。私は本来から悟性が悪く、このような体得を得ることが出来たのは、師父が奥深い法を分かりやすい表現で説かれたお陰です。今は、師父がおっしゃった「三つのこと」を一番大事なこととして実行しています。それはまずしっかりと学法、煉功し、発正念をしっかりと行い、世の人に真相を伝えて人々を救うことです!!
師父、ありがとうございます。
同修の皆さん、ありがとうございます。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
[2] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「目覚めよ」
[3] 李洪志師父の著作:『各地での説法八』「二〇〇七年ニューヨーク法会での説法」