内に向けて探し 「消極的思考」から抜け出す
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2019年2月28日】先日、「どうしても元気になれず、法を勉強しても頭に入らないし、利益も手放したくなく、ポジティブ(積極的)な性格だけれども、修煉においてこれほど消極的になるとは思いもしなかった」と、ある同修が言いました。私自身も消極的で、自分を責める考え方から抜け出したばかりなので、自分の体験についてここで交流していきたいと思います。

 私たちは大法弟子なのに学法が足りなかったり、実修していなかったり、些細な妨害や魔難に遭うと、心を静めて法を勉強することが出来なかったり、逃避したくなったりするなど、歯を食いしばって真に自分を変え、良くないものを取り除く決心が中々つかない時があります。しかし結局のところ、自分がどうしたいのか、どうしたら利益や名誉が得られるかなどの考えを捨てて、無条件に内に向けて自分を探し、苦を嘗め、常人の全てを放下しなければならないのです。

 口で言うのは簡単ですが、実際に行うのは容易なことではありません。しかし、修煉の中で出会った全てのことにおいて私たちが心性を守り、師父の言われることを信じていれば、その背後に隠れている執着心は自然と消え去ることができるでしょう。

 では、私たちは「自分のため」という利己心を真に放下できるでしょうか? 師父の教えを守り、それを実際に行動に移すことが出来るでしょうか? 大変な時に、本当にそれができるものでしょうか? 師父は「忍び難きは忍びうる。行ない難きも行ないうる」[1] と説かれました。では、私たちは「行う」ことができ、「忍ぶ」ことができるでしょうか?

 「昔、ある道を修めている人が町を歩きながらお酒を飲んでいました。突然ある人を見かけました。この人はまさに自分が探しており、道を修めることのできる人です。それで、彼はこの人を済度し、弟子にしようとしました」、「大きさが手のひらほどの徳利を地面に置いて、蓋を開き、瞬時に徳利の中に飛び込みました。彼は師父が中に飛び込んだのを見て、師父のまねをして徳利に入りました。見物をしている人々は皆、徳利の口から中を覗きました。あら、覗いてみたら中は広々とした世界なのだ、しかも非常に広いのです」[2] と、師父は説かれました。

 師父が説かれた「法」がぎっしり詰まった『轉法輪』は、常人が見ればただの1冊の本にしか見えませんが、それはまさに、師父が心血を注がれて書かれた偉大な「法輪大法」なのです!! 『轉法輪』の本の中には大法が作り上げた層々たる世界や宇宙が描かれており、その無限大の法力に不可能なことは存在しません。そのような大法が私たちを変えられないはずがあるでしょうか?! しかし、変えられるとしても、私たち自身が心から変わりたいと思わなければなりません。そうでなければ、それは生命を作り直すことであり、私たちではないのです。そして、それは師父が衆生を救う形式でもありません。師父は私たちを済度しておられ、全ての生命を済度されています! 私たちが修煉して心性を向上させてこそ、ようやくその次元の法を見ることが出来るのです。

 「一人の僧侶が坐禅している間に、その元神が極楽世界に行ってそこの景色を見ました。一日ぶらぶらして、現世に戻ってきたら、すでに六年が過ぎていたという話です。彼には本当に見えたのでしょうか? 確かに見えました。しかし見たのは真相ではありません。なぜでしょうか? 彼の次元が低いので、その次元において彼の見るべき佛法の現われだけしか、彼に見せることができないからです。というのは、そのような世界はまさに法が構成するものの現われなので、彼に真相が見えるはずもありません」[1] と、師父は説かれました。

 また、私たちは一体どのような気持ちで法を勉強しているのでしょうか? 法に対して敬意を払っているでしょうか? 大法の含意を理解したでしょうか? 自分の心性が向上していないから、さらなる高い次元の法理が見えず、かえって人心を取り除こうとせず、実修していない事例が大法弟子の中でよく見受けられ、かつ、大きな問題となっているのではないでしょうか?

 そして、私たちがこのように時間を持て余していられるのも、もう長くはないでしょう。常人社会の中で、たとえ偉い人物になれたとしても、一体何の意味があるでしょうか? 「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」と言う言葉がありますが、いつまでも執着して放下できないものは何でしょうか? 私たちに残された時間はあとわずかしかないのです。それでもまだ人心を放下せず、師父について行くことが出来なけば、本当に本当に終わってしまい、二度とこのような機会はありません。生命は大法に同化するほかに残された道はありません。

 よく意志について交流します。私たちには大法弟子としての強い意志、強い信念があるはずです。もしそうであれば、圓満成就する日まで修煉し続け、師父について行くという意志を固め、いかなる時も動揺せず、勇猛邁進して最後まで修煉していきましょう! もし、そうでなければ意志を固められない人は、自分が一体何のために修煉しているのか、一体何を求めているのか、一体何が欲しいのか、一体何を選択すべきかをよく考えてみるべきです!

 同修の皆さん、実修する決心を固めましょう! 法を一文字文字真面目に勉強していけば、いかなる執着も放下できるはずです。法を勉強したくないと思うのは、思想業力が邪魔しているのではないでしょうか? 座禅して足が痛くて我慢しがたい時に我慢をし、それに耐え抜き、大法の要求基準に達することが出来るように真剣に修煉していきましょう!!

 執着心を放下し、大法に同化する

 師父は「失と得」の道理について説かれました。修煉において、時には失いたくないものを実際に失わせられることがあります。失うのを恐れていると実修できなくなり、放下できなくなるのです。では、どうすれば合格した大法弟子になれるのでしょうか? 師父を信じ、無条件に内に向けて自分を探し、不純で法に合わない思想を取り除き、どのような結果にかかわらず、自分が何を得られるのかも考えないことです。

 心性を高めれば「欲しいものを失わずに済む」し、「修煉の中で福報を得ることができる」し、「今、遭遇している難関を乗り越えることができる」などというずる賢い考え方をしていては、病の症状が体に現れ、かえって関を乗り越えられない場合もあるのです。

 心性を向上させる過程はとても耐えがたいほどの苦痛を伴い、その結果も自らの執着とは全く合わないものです。しかし、私たちは大法弟子なので、師父を信じなければなりません。何も求めず全てを放下して、師父と大法について行かなければなりません。

 法を理解してこそ修煉することができます。天上の神々が法を得たければ、人に転生しなければなりません。何もわからない迷いの環境の中で、一体何が良いのか、何が悪いのかも分からず、その人自身に選択をさせ、最後に何が得られるのかも全く分かりません。その中で、善の心を修められるかどうか、苦を嘗めて全てを捨て、修煉していけるかどうかを見るのです。キラキラした宝物を目の前にすれば、誰だって欲しがるでしょう。それではいけないのです。迷いの中では真相が見えません。だからこそ、佛性が出るかどうかを見るのです。もし、全てのことを大法の下で行い選択すれば、私たちはきっと師父と共に天に帰れるでしょう。

 これらを悟った私は『轉法輪』を暗唱し始めました。同修の体験談を読み、師父の『各地での説法十一』を勉強し直して新たな認識を持ちました。これまでの学法する態度やいたらなさを非常に後悔しています。法を得てから20年も経っているのに、なぜもっと真面目に法を勉強し、しっかりと修煉してこなかったのでしょうか! すでにたくさんの時間を無駄にしてしまいました! 同時に、もう迷う時間すらないという緊迫感を強く感じています。全ての執着心や放下したくない人心を放下して、師父について行かなければなりません。真に勇猛邁進して、なんとしても、天に帰らなければならないのです!!

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
 [2] 李洪志師父の経文:『米国西部法会での説法』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2018/12/1/377864.html)
 
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