心が清らかになると 心を静めることができる
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文/湖北省の大法弟子

 【明慧日本2019年2月27日】ある同修が病気になり入院しました。同修たちとこの事について交流した時、入院した同修の「闘争心が強い」という話が出ました。私は「心が清らかになっていないからではないか」と言いました。同修たちも「長年にわたって修煉している同修の中には、『闘争心』や『嫉妬心』がまだきれいに取り除かれていないため、多くの妨害を受けている同修がいる」と言いました。

 交流後、帰る途中で私は[心が清らかになっていない]ことについて、もっと深く考えてみました。常人なら、良い暮らしや楽な生活をしたいのですが、修煉者の場合、もし常人と同じ考えだとしたら、正に常人で、その心は清らかになっていないと思います。常人は良い暮らしや楽な生活をすることにより、他の人を妨害することもあると思います。そして常人の目的は私(し)のためですが、修煉者はその逆であるべきで、常人が求めているようなモノを求めません。

 私の心も多くの執着がまだまだ残っています。例えば、「情」に対する執着、常に息子のことを考え、息子の仕事は大変ではないか、息子の面倒を見たい、息子のことを心配するなど夫も常に心配しています。師父は説法の中で「あなたは他人の生活に干渉し、他人の運命を左右することができるはずがありません。妻や子供、親、兄弟などのような家族の人たちの運命も含めて、他人の運命があなたの思い通りになることがありえるでしょうか?」[1]と説かれました。

 「心が清らかにならない」ということは、以上の面だけではなく深く追及すると、自分は完全に師を信じ、法を信じているとは言えません。これが根本的な原因です。最初に法を勉強した時、「心を静めることによって、心を清らかにする」ことが分かりませんでした。単純に、心を静めることはできないと思っていました。今考えてみると心が清らかにならなければ、心を静めることができないのです。もちろん、師父の説法の中にはもっと深い内涵があると思います。

 私は自分の心を内に向けて探すと、闘争心や歓喜心、好奇心、恐怖心、嫉妬心、欲深い心、欲望への執着心、怠惰な心、顕示心、利益を求める心、遊びたい心、苦労をしたくない心、また家族への情など、たくさんの良くない心が見つかりました。そして、これらの良くない心が修煉者への妨害となりました。それには自分のモノや同修から来たモノもあり、家族から来たモノもあります。もしもしっかりと修煉しなければ、常人の低レベルにまですぐさま引っ張っぱられていく、のではないかと思いました。

 さらに追及すると、心が清らかにならないことは闘争心、顕示心、嫉妬心と緊密に関わっていると認識しました。日常生活の中に、このような執着心が常に出てきますが、法をしっかりと勉強した時や三つの事をきちんと行っている時には、この現象は現れません。しかし、修煉を緩めた時に、いろいろな執着心がまた出てきます。例えば、パーティーの時、自分をきれいに見せて皆の前でひけらかし、自分を顕示したいとか、他の人が自分より良い暮らしをしている時、嫉妬心が出てくるとか、何かにつけて自分より劣っている時にさえも、心の中でに密かに喜ぶなどということが現れてきます。このような心が少しでもあれば、心を静めることはできないでしょう!!

 さらに追及すると、利益を求める心ですが、表面上、私は名利を求める考えはすでに放下したと思っていました。しかし、心の奥底にまだ利益を求める心が隠れていました。長年にわたって修煉してきたので、多くの執着心はもうかなり少なくなっており、ほとんど放下していると思っていました。しかし内に向けて探し、考え直してみると、まだまだ取り除かれていないということに改めて気づきました。そして、これらの多くの執着心は、大なり小なり自分自身の修煉にも影響しています。

 師父は、「定力の深さは次元の現われです」[1] と説かれました。これらの隠れた執着心を早々に取り除かなければなりません!! 自分の心が清らかになることにより、心を静めることができると感じました!!

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/2/18/377363.html)
 
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