「内に向けて探す」ことについての自分なりの悟り
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2018年12月27日】「執着心を探し出せない」とか、「山ほどの人心を探し出した」とかと、私たちはに向けて探すことについて同修と交流する時に、よく聞くことがあります。あるいは同修の交流文章にもよく書かれています。数年来の自らの修煉体験から、これらの問題について同修と交流したいと思います。

 学法を通じて、私たち修煉者は大法に従ってさえいれば、生命を昇華することができたと感じますが、個々の根基と悟性の違いによって、変化の程度も違います。私たちは往々にして、認識できた問題ならば修めることが出来ますが、まだ気づいていない人心や執着については、なかなか取り除くことができません。しかし、「認識していないから」ということは言い訳にすぎないと私は思います。それは本当はよく修めていないからであると思います。

 修煉し始めた時、多くの人心を持っているため、どこから修めてよいのかがわからないのです。ですから、修煉がとても難しいと思った人が、修煉を放棄してしまうことがあります。師父は真の修煉者に責任を負ってくださいます。多くの人心を持っている私たちに、師父が順序良く段取りしてくださいます。師父は私たちに執着を探せるように手助けをしてくださり、それらの執着心を淡泊に見るようにさせ、最終的には、それらを取り除くように導いてくださいます。

 ある執着に私たち自身が気づいていない時、師父はいろいろな方法で啓発してくださいます。例えば、トラブルに遭うという啓発の方法です。私たちに心を動じさせ、不快な思いをさせるようなトラブルに出わせ、それと同時に、師父が私たちに「内に向けて探す」ことを教えてくださいます。

 私はいつも、これらのトラブルや不愉快なことを「言語・ことば」にしてみます。トラブルに遭うと、すぐに「自分のどこに問題があったのか、今、その執着心を取り除かなければならない時だ。自分のどこが弱点なのかよく見てみよう」と自分に告知されたように感じます。このやり方は「内に向けて探す」ことであると私は思っています。そして、私はすでにこのやり方が身に着いています。ですから、現在トラブルが現れると素早くその問題点に気づくことができ、その原因もはっきりわかるようになりました。そして、それらの問題に直面すると「乗り越えられないことはない」と自分に言い聞かせます。私の天目は開いていないし夢もあまり見ませんが、いつもこんなふうに「内に向けて探す」というやり方で、師父と通じ合っていると感じています。しかも、本当にスムーズに相通じていると感じています。

 実際、このように「内に向けて探す」習慣になっていても、トラブルは絶えず発生します。「内に向けて探す」ことは、それらの問題自体を解決するためではなく、ある執着心を取り除くためだと思います。同じ執着心が1回だけで完全に取り除くことがなかなか出来ず、繰り返し練磨を受け、時間と過程が必要な場合もあります。

 しかしもし、トラブルが現れても「内に向けて探す」ことが出来なければ、人心が多く積み重ねられ、次第に大きくなります。従って、それにより大きな難を招いた時、長期的に取り除いていなかった執着心に触れてもいなかったし、問題を引き起こした原因すらわからず、終いには「執着心を探し出せない」と言うのです。もしも、それらの事で焦り出し、師父に啓発をお願いすることによって、より多くの執着があることに気づき、「山ほどの執着心を探し出した」ということになります。

 修煉は厳粛なことです。師父はすでに私たちに近道を教え、導いてくださっています。一部の同修はトラブルの中で内に向けて探さず、いつも表面的に問題を認識して、自分が間違っていないと感じています。当然、私たち修煉者は長年修煉してきているので、表面的な問題ならすぐわかると思います。もし、表面のことさえわからなければ、あまりにも悟性が良くないことになります。ですから、トラブルが表面上でみて、自分が間違っていないと思っていても、内に向けて探さなければなりません。トラブルは偶然に起こることはなく、それにはきっと理由があります。それは、私たちを向上させる時で、チャンスだと思った方がよいと思います。トラブルのある時点で、あるいはその事が過ぎ去ってからも、私たちは本当に内に向けて探せば、きっとその原因を探し出せます。私はこの点について本当に多くの体得をしてきました。

 一部の同修は執着心を「大きい、小さい、良い、悪い」に分けていますが、実は分けてはいけません。というのは、どんな執着心でも最終的に取り除かなければいけないからです。より多く積み重ねると、取り除くことが困難になるに違いありません。小さなこともその背後にある執着心が小さいとは限りません。一般的には表面から見て、良くない執着だとすぐに注意を引き起こさせられます。誰でもその人心が悪いとわかっていて、口実にならないからです。しかし、ある種の執着心は奥深く隠れている可能性があります。その心を「気にしていない、気づいていない、直面したくない」となると、向上させるチャンスを逃してしまいます。

 また一部の同修は常人の中で一定の知識や教養レベルがあり、つまり知識層に属します。これらの同修は表面上は優しいし、法理もよくわかっているようにみえますが、トラブルに遭った時、往々にして、常人の方法で対応してしまいます。寛大な態度を取り、相手と同じようなことはしません。しかし、これは常人の方法で、修煉者としてのやり方ではありませんので、真の修煉にはなりません。これらの機会で足りないところを探し出せなければ、向上の機会を失いもったいないことになります。

 私自身の体験からいうと、どんなに小さなトラブルでも、どんなに些細で不愉快なことでも、必ず自分の不足を探し、それらの執着心を探し出して取り除かなければなりません。常に「内に向けて探す」ことが身につき、習慣になっている生命になったならば、「執着心を探し出せない」とか、「山ほどの執着心を探し出した」とかというようなことにはならないと思います。

 以上は個人の浅い見解で限られていますので、間違っていれば、同修たちの慈悲なるご指摘をお願いします。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2018/11/17/377241.html)
 
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