修めて怨恨心を取り除き慈悲が現れる
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文/吉林省の大法弟子  

 【明慧日本2020年7月30日】明慧交流の『党文化を解体する特集15』「異なる恨を修して無くす」を聞いた後、自分にはまだ多くの怨恨心があることに気づきました。自分は怨恨心の方面では結構修煉がよく出来ていると思っていましたが、それは無くなっていませんでした。交流を聞いてから、私は一思一念でこの怨恨心を消していきました。

 人と関わる中で、嬉しくない、やりたくない、人が気に入らないなどは、全て怨恨だと分かり、とても驚きました。それを修めて無くさなければならないと分かりました。普段は普通に見えることでも、恨みとなってしまうことがあり、私も多くの恨みがこみ上げていたと分かりました。

 端午の節句に3連休がありますが、職場は却って端午の節句に残業するように命じられ、さらに普段の仕事よりも大変でした。この怨恨はすぐに出てきました。同僚も気が進まないようでしたが、指導者の圧力が怖く、皆表に出さないようにしていました。しかし私は不愉快な顔をしてしまいました。自分でも間違っていると感じ、怨恨心を取り除くべきだと思いましたが、ただ表面的に取り除いただけで、内心ではまだ恨みがありました。

 ある日、髪を洗った後でドライヤーをしていると、とても冷たく感じました。家には二つのドライヤーがあって、娘(同修)がたまに私のを使うこともあります。それで私はドライヤーの温度を調節して上げると、心の中で一つの声がこう言っていました。「この子は本当に鬱陶しい。使い終わったら(温度を)戻しておけばいいのに」。この一念が出たとたんに、すぐ「違う、これは怨恨心だ。娘がそのままにしていても、私が調節すればいいではないか。娘はべつに間違っていないし鬱陶しくもない」と思いました。怨恨心を滅し、絶えず心の中でこの怨恨心を滅しました。間もなく怒りは無くなり、また恨むこともなくなって、気分良く髪を乾かし終えました。

 ここ数日、夫(同修)は監督のようで、キッチンで私に対して、すぐに私のここが間違っている、そこが間違っている、おかずも美味しくない、ここに物を置いてはいけない、などとあれこれ言ってきて、どのみち私が正しいことは一つもありません。夫は少しすると、また、あら捜しをして、絶えず私に邪魔をしてくるのです。私は思いました。夫は私の怨恨心を取り除く手伝いをしてくれているのだと悟り、心性を守り、夫が私に何を言ってきても、何を指摘しても気にせず、この怨恨心をなくし、絶えず怨恨心を取り除きました。

 私は「そうですね、あなたの言うとおりです。そのようにするべきで、私はあなたの言う通りします」等等、口では彼に賛成しましたが、心の中では絶えず怨恨心が湧いてきて、それを絶えず取り除いていました。「私は怨恨心などいらない。怨恨心は中共の邪悪なものだ。私はいらない」。このようにして、少しも怒らず、恨まず、平静にキッチンから出ました。無意識に振り向いて夫を見ると、茫然としていました。夫は私に背中を向けていましたが、横顔が見えて、微笑んでいました。

 もし以前なら我慢できず、心の中でとても怒ったかもしれず、或いは言い返して、売り言葉に買い言葉で白黒つけようとして、最後には喧嘩別れしていたかもしれません。いつも後から自分は正しくなかったと思い、それで怨恨心や闘争心、人に言われたくない心、嫉妬心等等を取り除こうとしますが、度々同じようなことに遭遇したら、また前のようになってしまいます。でも今回は違っていて、私は怒らないだけではなく、とても落ち着いていました。

 職場で、縁のある同僚に会うと法輪大法真相を伝えています。ですから職場の大部分の人は皆私が法輪大法を修煉していることを知っています。私は心の中に一つの良くない考えがあって、頻繫に私を左右してきます。私が陰であれこれ言われたら、真相を知らない同僚は私を怖がり、私を避けて、私に近づこうとしなくなるかもしれない。このように思うと、身近にいる同僚が本当にこのようになったので、私の心は非常に辛くなって、自分から同僚と挨拶もしたくなくなり、孤独になり、このような状態がしばらく続き、一人一人と顔を合わせるのも嫌になって、ついには食堂にも行きたくなくなりました。

 私は絶えず高密度の怨恨心を取り除き、誰と接触しても、機嫌が悪くなったり、嫌なことがあったり、人を許せなかったり、人の考えを軽蔑したり、相手が私を無視したり、相手が冷たく言ってきたり、上司が私と話したがらなかったり、他の人に言われたり等等、と何があってもこの表面的なことで誰が正しくて誰が間違っているとかを考えず、相手が何を言ったとか、何をしたとか、かつて私と何かの恩讐があったとしても、全て重要ではなく、私はただひたすら怨恨心を取り除き、絶えず取り除きました。すると、私の内心は穏やかになりました。同時に相手も私に友好的になり、私たちの間にはまるで何もなかったかのようでした。本当に不思議です。念が正しければ、周りの一切は正常になります。

 師父は説かれました。「麻薬なんか大丈夫、少し摂取しても問題ないと言っている人がいます。確かにいい気分になりました。もう一度やってみましょうか? それも大丈夫でした。じゃ、もう一回? もうおしまいです。コントロールできなくなりました。なぜでしょうか? 麻薬の成分は体内に摂取されると、あなたの体の中に薄くて淡いあなたを形成しました。毒性が強いから、一回でできてしまいます。二回目摂取すれば、この薄くて淡いあなたが少し濃くなります。吸うたびに濃くなり、ますます濃くなり、逞しくなっていきます。このもう一人のあなたは人体のすべての構造、思惟まで備えており、麻薬の魔性によって構成されたあなたになります。もちろん、このあなたは麻薬摂取以外のことにまったく興味はありません。麻薬がなければ、麻薬をやめれば承知しなくなります。なぜでしょうか? すでに生き物になったからです。生き物になってその後どうなるのでしょうか? 皆さんが分かっているように、麻薬を摂取しなければ、もう一人のあなたは体の新陳代謝とともに薄くなり、徐々に薄くなり、死んでしまうのです。死にたくないので、薬物を吸入するようにあなたをコントロールし、もう一人のあなたを増強するのです」[1]

 私は悟りました。怨恨心も生生世世に、積み重なってきたもので、他の空間で形成された密度の高い怨恨は一つの「自我」で、それは強大になり直接私たちの一言一行を左右しています。それはとても「濃」で、私はそれを絶えず取り除き、絶えずそれを一掃し、そうしてやっと少しずつ薄くなり、最後には完全に消失するのです。ですからどんな時でも絶えず心の中で怨恨心を一掃しました。ご飯を作るときや、洗濯をするとき、掃除をしているとき、食事のとき、道を歩くとき、洗顔するとき、寝る前等等、それを一掃する機会を逃しません。それを取り除き始めたばかりのときは、とくに何の感覚もありませんでしたが、私は信念をもって毎回「怨恨心を滅する」と念じました。それは他の空間で少しずつ一掃され、减少していき、また増加するということは無く、これは間違いのないことです。私はそれが少しずつ、ますます薄くなっていくのを感じるようになりました。それはすでに私を左右することが出来なくなり、いつでもどこでもそれが現れると、私はそれを掴み、取り除くことが出来るようになりました。

 絶えず怨恨心を一掃するにしたがって、多くの気づかなかった怨恨心が顕わになりました。例えば、身内に不治の病になった人がいて、学法煉功はしていても、しばらくして信じたり信じなかったりしてから6カ月になり、完全に大法の修煉に入っていなくて、薬を飲もうとする心が放下出来ていません。しかし彼に対して、とても深く隠されていた怨恨を私は自覚することができず、それどころか自分は彼より良く出来ていると思っていました。私が彼に対する肉親の情を薄くしても、彼は変わることはありませんでした。私は彼に対して怨恨心があったことを悟り、同時に絶えず一掃し、私は二度と彼を憎まず、反対に憐みの心が出てきて、「この生命はなんて可哀想なんでしょう、宇宙大法がすでにそこにあるのに、彼はまだ入っていない」と思いました。この文章を書いていたとき、彼との電話で、身体がだんだんと良くなっていると言い、三つの腫瘍のうち二つの小さなものはすでに生命をなくしたようで、もう一つの大きい腫瘍も小さくなったそうです。彼は電話でその出来事を長々と語り「師父に感謝し大法に感謝します」と語っていました。私は知っています。この生命は救われたのです。

 さらに深く内に向けて探すと、公、儉、法、司(中国政府の各行政機関)の人を怨恨しており(あるときはパトカーを見ても怨恨心が出る)、地域の街中の人を恨み、この場所で迫害されたと恨み、真相を聞かず信じない衆生を恨み、真相を聞いても私を避ける人を恨み、職場の同僚が私を疑って監視することを恨み、同修が私の意志に背くことをしたとき恨み、同修の交流文がとても長いと不満に思い、家族や同修が精進していないと不満に思う等等、再度自分の心を深く掘り下げていくとまだ怨恨心があることに気づきました。

 絶えず怨恨心を取り除くと同時に、他の心も無くなったような感じがありました。例えば、闘争心、嫉妬心、色欲心、他人を軽蔑する心、自責心、恐怖心、死を恐れる心がみな無くなりました、まるで怨恨は一つの糸のように、多くの執着心をつないでおり、怨恨が少しずつ無くなると、そのつながれた多くの執着心も一緒に消えていきました。

 現在、私の心の中は慈悲で和やかで、身近な人、事、物が全て美しく変わり、順調になりました。私は誰を見ても親しみがわき、誰でも良く見えて、本当に相は心から生じて、でした。他の人も私にこのように接してくれるようになりました。知らず知らずのうちに、私は自分から人に挨拶をするようになりました。私はなるべく早く人と仲良くなれるようにして、時期が来たら真相を良く伝えてその人を救うのです。夫も私に何も言わなくなりました。たとえ言ったとしても少しだけで、私も心にとめないことにしています。真相を伝えることもほとんどスムーズになり、大部分の人は少し話しただけで三退するようになり、反論する人、あれこれ言う人にも遭遇しなくなりました。

 師父の説法を思い出します。「実は常人社会で起きた全ては今日においても、皆大法弟子の心によって促成されたのです。旧勢力が存在していますが、皆さんにその心がなければ、旧勢力も為す術はありません。正念が十分であれば、旧勢力もどうしようもありません」[2]

 師父の説法から悟ったことは、私は必ず良く自分を修めること、私が良く修煉出来れば、衆生も救うことが出来るのです。このように思うと、涙が絶え間なく流れてきます。さらに確固として三つのことを良くおこなうよう決心します。

 師父が弟子に一切の全てを与えてくださったことに限りなく感謝いたします!

 個人の修煉で次元に限りがありますので、もし不適切な所があれば、同修の慈悲のご指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『二〇一九年ニューヨーク法会での説法』
 [2] 李洪志師父の経文:『各地での説法』「二〇〇二年米国フィラデルフィア法会での説法」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2020/7/10/408768.html)
 
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