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「内に向かって探す」ことを万事に貫く


文/中国の大法弟子

(明慧日本)修煉は、なにか事に遭ったときに内に向かって探します。これは師父が説法の中で何度も強調されています。大法弟子として、私達は高次元の法理「内に向かって探す」ことを万事に貫き、修煉の機制を形成し、着実に自分の心を修め、三つのことをしっかり行って、圓満して、師に随って戻らなければなりません。

  それでは私が最近出会った事を書いて、同修達と切磋琢磨したいと思います。

 一、私の仕事は毎日、新聞、手紙・書類、郵便物、郵便小包などの受付です。ある日、1人の学生さんが郵便小包を受け取りにきて、探したのですがありませんでした。彼は、郵便局に行って問い合わせたところ、小包はある人(私と同じ名字)が署名して受け取ったとのことでした。私は、「明日もう一度郵便局に行って、署名した人のフルネームと時間を詳しく聞いてください」と言いました。学生さんが帰った後、私は居ても立ってもいられず、焦り、ただちに自分が郵便局に行って聞きたいほどでした。

  この時、私は突然自分の心理状態が間違っていると感じ、落ち着いて内に向かって探しました。私はどうしてこんなに焦るのでしょうか? 焦る原因は何でしょうか? 見た目では小包を本当になくした学生さんにどう始末をつけるかでしたが、実際は、同僚に小包さえよく管理できないと言われるのを恐れる心があり、これは名利を求める心です。また、この小包を本当になくしたら、私が損害を賠償しなければならないと重い、これは利益の心を放下できなかったからです。

  師父は私達に職場の仕事をしっかり行ない、どこにいても良い人になるように導いておられます。私は仕事を真剣にしたのでしょうか? いい加減なところはなかったでしょうか? 私は仕事を真面目にして、いい加減なところはありませんでした。それなら、他人が何と言おうと気にせず、良心に恥じるところがなければいいのです。私は修煉者ですので、職場の仕事をしっかりすればいいのです。

  「弁償」の問題については、引き続き法理で認識しました。師父は『転法輪』の中で、「本当に修煉を決意した人にとっては、もし耐えることができ、さまざまな利益を前にして執着心を捨て去ることができ、そういうものに淡泊になれたら、こういうことを真に実行できれば、難しいことは何もありません」、「はっきり分かっていながら常人としての利益を失うという現実的な利害の前で、心が動じるかどうか」とおっしゃいました。

  ここまで来て、私は自分の心がとても軽くなりました。本当に心の底から修煉者としていかに利益の問題に直面すべきかが分かり、とても自然に放下することができたのです。本当に執着を見つけて放下できたら、他の空間の悪い物も解体するのです。私は「修は己にありで、功は師にあり」、「法がすべての執着を破ることができる」ことを真に体験しました!

  しばらくして、女の先生が入ってきて、棚の上を見ながら「楽淘淘さん、楽淘淘さん」と呼びました。見ると、それはまさに探していたその小包でした。もともとその小包は守衛が署名して受け取ったものをいつの間にか棚の上に置いたのでした。一般的に小包はすべてオフィス棟に送り届けるのであって、入口で受け取る(決まりがある)ものではありません。これは本当に師父が私の執着心を暴露するために巧みに按排されたものでした。

  二、私は受付で仕事をして、毎日夕方6時に退勤することになっているのですが、(他の教師達は5時に退勤)、ちょうど発正念と重なります。だから私は毎日5時30分前に早めに退勤しました。わが家から会社まで歩いて5分です。私が早めに退勤した時、何度も学校の上司に会ったことがあります。その時、私は学校の入口を出て上司に会い、町内の入口でまた他の上司に会いました。私はおかしく思いました。修煉者には絶対に偶然なことはありません。

  そこで、私は内に向かって探しました。自分には強い不平の心、憎む心と争う心がありました。私が法輪大法を修煉して良い人になるのは間違いがないのに、彼らは私に授業をさせず、私に受付をさせており、これは私に対する一種の迫害だと思いました。心の中で不平をもち、わがままで、仕事の時間を守らず、連絡せずに早退していました。完全に自分が修煉者であることを忘れ、常人の方法で、この事を迫害だと思いました。もし、他の空間の邪悪の操りがなければ、神の道に向かっている修煉者に対して、何かできるでしょうか?

 この問題で私は旧勢力の妨害に邪魔をされ、騙されました。私の行為を見て、周囲の同僚達はどう思うでしょうか? 彼らは大法を学んでおらず、彼らは大法を学んでいる人の言動を見るのです。私がやっているのは衆生を外に押しやることではないでしょうか? 邪悪が最も喜ぶことではないでしょうか? そうです、本当に恥ずかしく思いました。師父が按排された道をしっかり歩むことができず、出会ったすべての事をすべてよい事と見ることができず、それを多く人を救う良いことに変えることができませんでした。本当に師父の慈悲なる済度に申し訳ないと思います。

  法を正すには過程があり、今は衆生を救い済度することが最優先です。まず私は真剣に学法し、自己を放下し、真の修煉者の心で衆生に向き合い、自分の仕事に向き合います。必ず「早く出勤し遅く退勤するようになり、コツコツと働き、上司から与えられた仕事は何でも文句無しに受け入れ、利益をめぐって争うこともなくなりました」(『転法輪』)のようにやって、発正念と退勤の関係をきちんとして、どれもいいかげんにしないことです。自分の言動が衆生を救い済度する事に障害にならないようにやり遂げようと決心しました。何かに遭ったときは内に向かって探し、自分の修煉の道を歩み、多く人を救い、先史の願いを達成します。

  以上は、私の最近の修煉体験で、書き出して同修たちと切磋琢磨したいと思います。不適切なところがあれば、ご叱正を願います。

  2010年1月15日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2010/1/12/216044.html

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