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発正念について


文/中国の大法弟子

(明慧日本)中国のイ坊地区に修煉者が病業で肉体を損なう現象がありました。「発正念もしたし、一緒に学法や交流もしたので、自分自身の正念が足りないせいだ」と思う人もいれば、「同修全体の協力が足りない、続けて発正念をしていない。いつも本人の正念が足りないと思い込んで、よくない念(物質)を入れたことが原因だ」と思う人もいます。

 師父は身体に病業が現れることについて『精進要旨』の「病業」の中ではっきりとおっしゃいました。そして多くの説法の中にもよくこの問題について回答されています。六道輪廻をする中で私たちはいろいろ悪いことをして、たくさんの業力を作りました。業力の大部分は師父が取り除いてくださったのですが、残りの僅かのものは私達が引き受けるために存在しており、「また自分でまったく苦しみに耐えようとしないことは絶対許されないのです」(『転法輪』)

  1999年7.20の前に、誰かに病業が現れても皆喜んで自分の体験を話し、師父が自分のために大きい業力を消滅して下さったと思いました。なぜ今になって、病業の発生について心が落ち着かないのでしょうか?

 今、誰かに病業が現れてしばらく続いていれば、同修達はすぐに互いに伝え合ってこの人のために発正念をします。さらに、発正念を通じて同修が魔難を乗り越えた交流文をあげて説明し、すでに発正念をマスターキーのように思い込んでいます。一部の同修は歯が痛いなどのトラブルに対しても発正念をしており、自分が修煉者として何をしっかり行っていないかを考えません。

 身体の業力を滅することは、ほんの一部なのです。一部の同修は常人社会での魔難に面して、どんなに苦しくてもしっかりと把握できます。自分が難関を乗り越えなければならず、内に向かって探さねばならないと知っています。同修もこのために発正念をしてあげることはしません。しかし、身体に病業が発生するとすぐに慌てて発正念をするのです。身体に表れた病業は心性に関係ないのでしょうか? 私たちは余りにもこの肉体に執着しているのではありませんか? これによって旧勢力に隙に乗じられて、逆に人身を奪われてしまうのです。私達すべてに責任があるのではありませんか? もし、私達があまり同修の病業ばかりに執着しなければ、同修は早く乗り越えられるかもしれません。

 私はこの問題に関する交流文をたくさん読みました。私の悟りでは、同修が病業の難関を乗り越えたのは、単に皆の発正念のお蔭ではなく、皆に助けられて法理上で向上し、正念が出てきて悟ったから乗り越えられたのです。同修のためには同修の正念を啓発して、観念を変えてあげるのが大事です。「あなたはまったく、三界内の生命ではなく、すでに常人ではないのです」 「つまり、神がどうして、常人に病気を診てもらうのでしょうか? 常人がなぜ神の病気を治すことができるのでしょうか?」(『ロサンゼルス市での説法』)と師父もおっしゃっています。もしこの同修が病院に行って或いは他の医療方法で、難関を乗り越えることを放棄するならば、常人になります。旧勢力はこのことを口実に迫害することもあり得るのです。

 ある同修は次の疑問を抱えています。「三つのことをしっかりしているのになぜこんな目に遭わなければならないのか?」 これは『転法輪』の中の脳血栓になった人の認識と同じではありませんか? 一部の同修はこの問題に遭うたびに「妨害だ」と言います。これは外に向けて探していると私は思います。なぜ妨害なのでしょうか? 自分に漏れがあるのではありませんか? 「わたしは根を宇宙に下ろしているので、あなたを動かせる人がいれば、このわたしをも動かすことができることになり、はっきり言って、その人はこの宇宙を動かすことができることになります」(『転法輪』) 大法弟子は師父に加護されており、誰が大法弟子を動かすことが出来るのでしょうか? 誰に妨害する勇気がありますか? 自分に漏れがあるとしか考えられません。根本的に自分に問題があるのです。

 師父は説法の中で、出会った良いことも悪いことも良いことですと説かれています。一部の同修は乗り越えたらよいことだと言い、逆に乗り越えられなければ悪いことだと思い込んでいます。これは師父の話を半分しか認めていません。これは法を信じていないことです。信が先に、悟りは後にあることなので、信がなければ悟りがあり得るでしょうか? 悟りがなければ行うことがあるでしょうか? 偶然なことはないのです。いかなることも修煉のために存在しており、私達の威徳を樹立するためにあるのです。乗り越えれば次元を突破しますが、乗り越えなければ自分が仏になりたくないことなので、仏もどうしようもなく、師父と法を守る神々も焦ってしまうのです。

 師父は円満成就するまでずっと私たちの修煉を指導されています。師父の経文『大法弟子の正念は威力あるものである』 『正念の作用』 『正念』 『正念をもって悪事を制止する』 『正念で黒い手を根絶する』は、すべて発正念の重要さを強調されていますので、同修達は心を静めてこの数篇の経文を再度勉強して欲しいと思います。

 「これ以上邪悪に隙に乗じられないようにし、人間の執着に妨害されないようにしてください」(『正念で黒い手を根絶する』) 同修たちよ! 師父の話を忘れないようにしましょう。

 当然私たちは同修のために発正念をすることも必要なことです。同修がしっかり行っていなくても、私たちは旧勢力の按排を承知しません。しかし、私たちはもっと同修に学法させ、法理上で向上させるべきです。内に向かって探し、正念を強めて初めて、難関を乗り越えることができるのです。

 間違っているところはご指摘下さい。

  2010年5月6日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2009/12/16/214380.html
(English:http://www.clearwisdom.net/html/articles/2009/12/25/113355.html

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