日本明慧
■印刷版   

人に学び、法を学ばない教訓

(明慧日本)1999年7.20以降、私の周りにいる同修には、この迫害に直面していろいろな認識が存在しています。最初の段階はまだ交流する機会がありましたが、次第に迫害がエスカレートするにつれて交流の機会も少なくなり、たくさんの同修が迫害を受けて、労働教養、懲役などを受け、私も数回監禁されました。

 一部の同修は恐れる心が強まり、私も影響されて恐怖心が起きました。法に基づいて法を認識することができないため、私は知らず知らずのうちに交流のとき、どうすれば迫害されないかということに言及しました。どうやって心を修めるかを交流せず、誰か迫害されていない人がいれば、その人の経験を聞きたがり、誰か無事に脱出した人がいたら、その人に尋ねます。例えば、警察官、民生委員や「610弁公室」の嫌がらせに対し、このように対処をすれば無事だったという経験を聞くと、自分もそれを真似てします。これは、完全に同修の話の意味を理解しておらず、表面上の解決だけを重視し、特に、同修がいかに自分の不足を修めてなくしたかを私は重視しなかったため、衆生のことを考えず、ひたすら自分の解決ばかりを考える状態に陥りました。その時の私は、どうやって道を歩むかさえ分からず、ただ修煉だけは放棄してはならないことを覚えていました。

 ある日、私は警官に派出所まで連行され、中で警官が他の同修に良い態度で接しているのを見て、私が警官に協力すれば、警官は私を迫害しないだろうと愚かに考えました。当時、私は協力しませんでしたが、念が歪んでいたため結局、留置場まで移送されて、その同修は釈放されました。

 留置場の中で私は分かりました。法を師と見なしておらず、人に学んでおり、同修が迫害を解体したのは警官の言うことを聞いたためで、正しい念と正しい行いではないと誤解していました。邪悪の要素は、はっきり見ています。あなたは彼女を見ているでしょう、家に帰りたいでしょう、協力しないのでしょう、それならお前を監禁してやろう。こうして、私に警官に協力しなければならないと勘違いさせるのです。数年来、この事件はずっと私の心に残っています。この教訓が忘れられません。

 人に学び、法を学ばない、これは危険で、同修をも害します。師父はこの事について説法されています。普段は学法の時に心を静めて行い、よく学法して自然に向上します。心を静めて学法できない、外に向けて探す、これは真の修煉とは言えず、そして自身が邪悪の要素に隙に乗じられて迫害され、損失をもたらします。

 個人的な体得であり、慈悲なる指摘をお願いします。

2010年8月19日
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2010/8/8/228076.html

■関連文章
「自分を修める」ことは素晴らしくて玄妙
正念で妨害を滅した経験(二)
人心を放下し 対面で真相を伝える(二)
戦う心を変え 慈悲をもって問題を解決する
師父と法輪大法を固く信じる心が微動もせず
内に向けて探し、問題を解決する
慈悲を持って問題を解決できるようになる
情の難関を突破する体験と教訓
法を学んで内に向けて探せば、環境が変わる
師父にしっかりと付いていく(四)