欲張る心を修め、しっかりと自分を修煉する
文/中国の大法弟子
(明慧日本)数日前、同修の家に行ったとき、同修の家族(常人)が会社から持ち帰ってきた日用品を私にくれました。これまでは、何度も何も考えずに喜んで受け取っていました。ある日、帰り道にどう考えても受け取ってはいけない、これは欲張る心ではないか、必ず取り除くべきだと思いました。
思いがけないことに、今回も受け取ってしまいました。家に戻った後、言いしれぬ気持ちになり、関を突破できず、利益の前で心が動揺したことは、修煉者として情けないと思いました。悟ったのに突破できませんでした。
いかなることも偶然はありません。師父は慈悲で、何度も私に機会をくださいました。この執着心を気づかせてくださったのに、取り除いて向上できず、悟れないことを悔しく思い、涙を流しました。師父が私たちを救い済度するために無数の苦難を受け止め、多くの業力を負担してくださいました。しかし、私はこのちっぽけな利益さえ放棄することができず、常人と同じく、小さな利益を得て喜んでいました。
別の見方から考えると、同修の家族(常人)が会社から物を持ち帰る行為は、道徳観念がとことん落ちている今の社会では、当たり前のことです。しかし、私たち神の道を歩む修煉者にとっては、大法の基準で律することこそ、真の修煉です。
しっかりと修煉しておらず、欲張る心を取り除いていないだけでなく、だんだんとその心が膨らんでいきました。いかなる物も徳で交換する法理を私たちは知っていますが、常人は知りません。常人が会社から持ってきた物を受け取ったとき、その常人がどのぐらいの徳で交換してきたか考えたことがありますか?
家族は救い済度すべき衆生です。三退し、大法に反対しなければ良い、ではいけません。生活の面から徐々に彼らの観念と行為を正し、変異した思想や観念を人間本来が持つべきものに変えなければなりません。これが最も彼らのためになります。ですから、私たちは普段から、自分の行為を正し続け、大法弟子から人間本来が持つべき理念と道徳観念を正すべきです。これこそ私たちの責任です。
修煉は厳しいもので、少しでも曖昧なことがあってはなりません。絶対に自分に厳しく律し、いかなることも大法の基準で図り、『事々対照し、做(つく)すところ至るは是れ修なり」(『洪吟』「實修」)と自分に言い聞かせました。しっかり修煉するだけではなく、「真・善・忍」を身近な人に伝えるべきです。
2011年04月25日
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