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正念と正しい行動を保つこと

(明慧日本)私は、1999年に大法を得た若い弟子です。11年間の修煉の中で、私は自らの体験から、修煉者はどのようなことをしていようと正念が必ず持つべきであること、そして、師父を信じ、法を信じることを第一に置くことの重要性を認識しました。以下は、私が自分の体験を、同修たちと交流するために書きとめたものです。
 
 法を得てから今日まで、私は毎日欠かさずに煉功を続けています。たとえ、その日がどんなに忙しくても、煉功を欠かしたことはありません。しかし、煉功を始めたばかりの頃は、時に煉功を適当に済まそうという心理が働いたことがありました。今日はとても疲れたから、早く煉功を終わらせて寝ようと考え、知らず知らずのうちに動作を早めてしまい、心中穏やかではありませんでした。今日は何をしたか、明日は何をするか、このでき事はこうだった、あのでき事はこうだったなどと、修煉者としての自覚を持って煉功しているわけではありませんでした。このような時は、たとえ煉功をしても、なかなか眠りに就くことが出来ず、翌日起きても体がすっきりしないのです。その後、しばらくの学法と煉功を通じて、自分は煉功することに対し、まるで仕事を行っているような心理が強く働いていることに気づきました。煉功を適当に済まそうとするのは間違った心理で、修煉者は何事をしていても、正念を持って、正しい行動をしなければなりません。個人の修煉について、師父が何度も強調されたことを、適当に対処してはいけないのです。煉功に対して正念がなく、修煉に対して正しい心理を持っていないことを探し当てた後、私は煉功を終えるたびに体がすっきりとし、とても気持ちよく眠ることができるようになりました。
 
 私はいつも母親と一緒に真相を伝えています。母親が他人に真相を伝え、私は隣で発正念をします。しかし、時々気を抜くこともありました。例えばある時、私は真相を受け入れてくれそうな人に対して、それほど正念を強めませんでした。このような時にかぎって、母親が真相を伝える時の効果があまり良くないのです。真相を受け入れてくれなさそうな人に対しては、私は正念を強め、母親が真相を伝えている間中、ずっと発正念をします。このような時、効果が良いのです。このことから、私は真相を伝える時の発正念の重要性を認識し、これからは母親が真相を伝える時、私は側でずっと発正念をしたいと思っています。
 
 私は3人家族で、皆修煉をしています。私が大学を卒業して故郷に戻り、仕事を始めた2007年に、家族で小さな資料拠点を作りました。私は資料を作成する過程で、プリンターやパソコンなどの機械は自分たちの法器であり、彼らと一緒に仕事をしている時の自分は、必ず正念を持ち、彼らと交流できるようにしなければならないと悟りました。ある時、プリンターのインクがなくなったので、母親にインクを入れるように言われました。その時私は仕事帰りで体がとてもだるく、やりたくありませんでしたが、母親に言われたので仕方なくインクを補充しました。しかし、心の中では不満を抱いていました。私は仕事でとても疲れているのに、家に帰ればこのようなことをさせるなんて、自分で出来ないのか? そう考えながらインクを補充していたので、修煉者の正念は完全に恨みに埋もれてしまいました。すると意外なことが起こりました。インクカートリッジにインクがまだすべて入っていないのに、下からインクが漏れ始め、結構な量が漏れてしまいました。私は慌てて直し、どうして今日は何をやってもうまくいかないだろうかと思いました。そしてインクカートリッジをプリンターにセットし、母親にチェックを頼みましたが、うまくいかず、パソコンがインクを認識しませんでした。この時、私はようやく悟りました。私は修煉者であり、何事に対しても正念を持たなければなりません。大法のことをやる時、なおさら恨む心理を持ってはいけないのです。私はプリンターの故障を調べながら、心の中でプリンターと交流をしました。「私たちは、みな師父が法を正すことを手伝いに来ました。先ほどインクを補充する時に、悪い態度をとってしまってごめんなさい。私たちは、互いに協力しあって、有史以前の願いをかなえなければならないのです」この一念が出た後、私は、すぐにインクカートリッジとプリンターがうまく接触していないことに気付き、改めてセットすると、プリンターは正常に動き始めました。それ以来、プリンターであろうと他の機械であろうと、私は常に正念を持って使っています。もし、異常な状況が起きれば、まず先に、自分にどこか悪い所はないかどうかを探し、それから彼らと交流しています。私たちの資料拠点はいつも正常に運行しています。
 
 また、普段の仕事や勉強をする時でも、師を信じ、法を信じることを第一におかなければなりません。少し前に、私は会計の免許を取ろうとして、テスト前に十分勉強をしました。私は問題なく合格できるだろうと思いました。そのためテスト中も、テストが終わったら、先生と少し話をして、それからはこの生徒と、そしてあの生徒とも少し話をしよう、などと考えていました。師父と法のことが全く頭の中に入っておらず、正念は完全に顕示心理によって埋もれてしまいました。そして、テストの結果を見ると、あと2点足りず合格できませんでした。家に帰る途中、私は反省しました。確かに勉強もして、問題も難しくはなかったのに、どうして合格できなかったのだろうか? 更に自分のうちに向けて探すことで、私は、自分が師父と法を第一に置いていなかったこと、自分の知恵はすべて師父が下さったもので、私は自分を過大に評価しすぎてしまい、法のことを完全に忘れていたことに気づきました。このことを通じて、私はたとえどのようなことをしていても、心の中には法がなければならない、ということに気づきました。そして、自分を一人前の大法弟子と見なし、正念を持って、さまざまな問題を考えるべきだと悟りました。
 
 これからの修煉の中で、私は引き続き自分を一人の修煉者として、厳粛に自分を律し、正念をもって正しい行動をし、自分の有史以前の誓いを果たしたいと思います。 
 
2011年07月21日

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